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『カレンシー・レボリューション』立ち読み

本ページで『カレンシー・レボリューション』を立ち読みいただくことができます。

本ページの前後の部分は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにて『カレンシー・レボリューション〜エコノミストたちの挑戦』をご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。

単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本の合計3本の作品が収録されています)。

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山海関

 月のあかりに輝く青藍の長城を、二本のロープに吊るされたトランクがゆっくりとのぼってゆく。

 小型トランクのなかには二千枚の銀貨が詰められている。重さは成人女性ひとり分はあるだろう。海に向かって吹く冷たい風にあおられることなく、トランクはほとんど揺れずに引き上げられてゆく。

「時間がかかりすぎる。だいじょうぶなのか」

と、小島譲次※が声をひそめて訊いた。トランクは全部で十個。それをひとつずつ、二百メートルほど離れたところに停めてある車から林を抜けてここまで運び、長城の向こう、すなわち満洲国側から投げこまれたロープに結わえつける。長城のうえにいるふたりと向こう側にいるひとりがロープを引き、トランクが長城を越えたら次を車にとりにいくのだが、その間に十分以上を要している。いま引き上げられているのは四つめなので、計二万枚の銀貨全てが長城を越すのにまだ一時間以上かかる。

「気長にいこう。焦ってもしょうがない」

といった柳場賢※の口ぶりは、あたかもひとごとのようだ。

「焦ってなどいない。ただ、寒くてたまらんのだ」

 満洲と華北を分かつ山海関(さんかいかん)。四月といえども深夜の陸風は冷たく、春の上海からきた身には冷気が骨まで染みる。トランクを見上げる首筋に痛みを感じた小島は頭を垂れ、両肩を自分の手で抱いた。

「では、次のトランクは小島さんがとってくるといい。あったまるよ」

「それは、構わんが──」

 聯盟(れんめい)通信社上海支局長である小島が上海のナイトクラブで柳場と出会ったのは一ヶ月前のことである。店の客と踊って小銭を稼ぐ小姐(シャオジエ)ふたりの肩を抱き、だらしなく笑い、酔って呂律のあやしい柳場はまさに不良邦人だったが、話してみると国際経済や金融について深い知識をもっており、興味をもった。銀相場で蓄財したという柳場が山海関へひと儲けしにいくというので、山海関で昨今急増しているという銀密輸の実情を取材したいと思っていた小島は柳場についてここにきた。

「冗談だよ、冗談。手伝わせたら分け前を払わなくてはならなくなる」

と、柳場は声をださずに笑った。

 ロープに吊られたトランクが長城の上面に消えた。

 範策(ファンツァー)が、

「那(ナー)、我去拿吧(ウォーチーナーバ)(じゃあオレが取ってくるよ)」

といって背を向け、車のほうへ歩いていった。

 範策は柳場の舎弟で、ふたりで組んで諸々の銭儲けをしてきたのだそうだ。長身かつ胸板があつい巨大な岩を思わせる男で、柳場のボディーガードでもあるらしい。

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 遥か二千キロかなた西にはじまる長城はこの山海関で海に連なる。まがりくねった龍の姿に例えられる長城の先端の海にせりだした場所は老龍頭(ラオロントウ)と呼ばれる。いまいる場所から海はみえないものの老龍頭までは歩いて十分もかからない。深夜の静けさのなかで、遠くにさざ波の音が聞こえている。

その波の音を嫌ったかのように、小島が口を開いた。

「これでいったい、いくらの儲けになるんだい」

「つい先日、アメリカが銀買い上げ価格を一オンス七十一・一セントに引き上げたそうだ。上海での価格は一オンス三十セント程度だから、二倍以上の金額で売れるんじゃないかな」

「なんと」小島は目を瞠った。「二万元をもってきたのだから、この旅行でその同額の二万元以上も儲かるということか」

 諸物価の変化から推計すると、一九三五年ごろの一元は現代の千円から数千円程度の価値がある。すなわち現代の価額でいえば数千万円の利益を得るわけだが、柳場は、

「まあ、五人がかりだし、旅費もそこそこかかっているからね。わりがいいのか悪いのか」

と、こともなげにいった。

「上海からくれば手間だろうけど、長城をはさんでこちらと向こう側とをなんども往復すれば大儲けできるじゃないか。そりゃあ密輸がはびこるはずだ。これでは銀の流出はおさまることはないな。国民政府注もたいへんだ」

「もとはといえばアメリカの自分勝手な政策のせいだからな。気の毒な国だよ。この国は。まあ密輸で国に損害を与えているオレがいうべき話でもないか」

 このふたりの会話の背景にある当時の経済状況やアメリカの銀政策について簡単に述べておくと、一九二九年に始まった世界恐慌によるデフレーションや銀産出量の増加、インドなどの銀本位制注離脱にともなう銀売却等により銀価格は下落し、世界恐慌発生前には一オンス五十セントを超えていたものが一九三二年にはわずか半分の一オンス二十五セントにまで落ちこんだ。この状況に危機を感じたアメリカの銀産出業界は積極的なロビーイングをおこない、アメリカ政府は一九三三年からいくつかの銀価格引き上げ政策を採用した。なかでも、アメリカの通貨発行準備のうちの四分の一を銀とすることなどを定めた一九三四年の銀買い上げ法の影響は大きく、アメリカ政府は国の内外から銀を吸い上げて、その結果、銀価格は急騰した。

このアメリカの政策は中国経済に深刻な影響をおよぼすことになる。中国は銀本位制を採用しており、銀価格の推移に並行して自国通貨単位、元の為替レートが変動する。世界恐慌のときには銀価格下落によって元は対ドル、対ポンドで安くなり、中国の物価は諸外国とは全く対象的にインフレ気味となり、工業生産はむしろ拡大傾向にあった。元安が世界恐慌という大火事に対する防火壁となり、中国は延焼をまぬがれたのである。ところがアメリカが銀価格引き上げ政策を導入すると状況が一変する。中国からアメリカへと大量の銀が流出した。このとき流出した銀の量は、密輸出を含めた推計で、中国における銀の流通総量の三分の一にもなる。銀本位制を採用する中国にとって銀の流出は、すなわち貨幣供給量の収縮を意味する。中国経済は深刻なデフレーションに陥り、株価は下落し、小銀行や工場、商店が相次いで閉鎖に追いこまれた。銀恐慌である。

 この状況に対処するために中華民国国民政府は一九三四年十月、銀輸出に対する課税を開始した。銀元硬貨の輸出には七・七五%、その他の銀製品の輸出には十%の輸出税を課し、加えて、中国における銀価格に輸出税分を加えた額とロンドンでの銀価格との差額を輸出平衡税として課す、というものである。つまり銀の中国国内価格と国際価格との差を輸出税と輸出平衡税によって埋めてしまおうというものであった。これによりアメリカ大統領が恣意的に決める銀価格に引きずられて元の為替レートが翻弄されることがなくなった。

 ところがまもなく、銀の内外価格は数十%も乖離するようになり、それが密輸の激増につながる。銀の正規な輸出は輸出税・輸出平衡税導入前の七分の一にまで減ったが、正規輸出を超える密輸がおこなわれるようになった。アメリカ大統領は銀買い上げ価格をさらに引き上げ、それにともない中国からの銀の密輸出はますます増えた。

 林のなかからトランクを提げた範策が戻ってきた。この巨漢がもつと五十キログラム以上あるトランクも軽そうにみえる。

 範策が長城の壁面に垂れ下がる二本のロープにトランクをくくりつける。それをみながら小島が、

「この鞄ひとつが二千元の儲けというわけか」

とため息をついた。吐いた息がかすかに白い。

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「買いとられる金額がいくらになるか、まだわからないよ。買い叩かれるかもしれない」

 小島は両手に温かい息をかけ、こすりあわせながら、

「山海関の長城の向こう側には満洲中央銀行の支店があって、密輸された銀を高値で買いとっているという話を聞いたが、本当なのかい」

「明日、お連れするよ。自分の目で確かめてみるがいい」

「つまりは一国の中央銀行が密輸に加担しているということか。日支関係が多少は雪解けムードにあるときに、なぜそんなことをするかねぇ」

 このころの蒋介石※は対日宥和を方針としており、広田弘毅(ひろたこうき)外務大臣も〝協和外交〟を掲げ、今年(一九三五年)年初に帝国議会で「わたしの在任中に戦争は断じてない」と演説し蒋介石はこれを評価した。満洲事変前後に極度に高まった両国の緊張関係は今年にはいってから多少和らいでいる。

「単に買いとった銀を再輸出して差益をぬいて、こまごまと稼ごうとしているのだろう。セントラル・バンクのやるようなことではない」

 暗くてはっきりとはみえないが、柳場は蔑むような表情をつくったようだ。密輸者に成りさがってはいても、正義を考える心を多少は残しているのか。柳場が続けて、

「通貨戦争を仕掛けているという意識があるのかどうか──」

とつぶやいた。

「通貨戦争?」

「将来武力で戦争することとなれば必ず通貨でも戦争をすることになる」柳場は予言するようにいい、「しかしいまの段階で、銀を流出させてこの国の体力を削いでやろうと考えている者がいるのかどうか」

 ロープに吊られたトランクが長城の壁面を登りきり、範策が次のトランクをとりに車に向かって歩きだしたとき、長城の上面で「ヒュッ」と、短い口笛が鳴った。

 柳場は表情を硬くして左右をみまわした。長城のうえの仲間が危険を知らせるために吹いた口笛だったのだ。

 海側にふたつの灯りがみえた。懐中電灯を照らした者がふたり、長城と長城沿いの林とのあいだの細い空間を歩いて近づいてくる。

 柳場は動こうとしない。

 小島は「逃げないのか」と小声で訊いた。

 柳場は答えずに、灯りのほうへ向かって歩きだした。

 近づいてくるふたりの足もとを照らしていた懐中電灯がこちらに向けられた。

 柳場は「辛苦了(シンクーラ)、辛苦了(おつかれさん。おつかれさん)」と明るい声でいった。

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