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『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第1021〜1080段落

本ページで『カレンシー・レボリューション』 第1021〜1080段落を立ち読みいただくことができます。

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 宋靄齢※はこのところずっと機嫌がいい。

 家のなかではリビング・ルームにいてもベッド・ルームにいても頬が緩んでしまい、ふらりと外出しては道ゆく子供に笑顔で「ぼく、いくつ?」と声を掛け、ジョッフル路(現淮海中路)にまで歩いていって商店を渡り歩き、少しでも気にいった服や小物があれば片っ端から買っていった。

 あまりに機嫌がいいので、正月でもないのにコックや運転手、掃除婦などに二カ月分の給金を小袋に包んで「いつもご苦労さま」などと明るく声を掛けながら配ってまわった。主人の口からは小言しか聞いたことがなく、目は吊り上っているところしかみたことがない使用人たちは、明日地球の終わりがくるかのように怯え、いつ主人が正気に戻って配ったカネを返還しろといいだしてもいいように、小袋の封は開けずに懐にしまいこんだ。

 宋靄齢。中国近代史を色濃く彩る宋三姉妹の長女。宋子文の姉であり、孔祥煕の妻である。美貌と名声では次女で故孫文夫人の慶齢に劣り、政治力では三女で蒋介石夫人の美齢にはかなわないが、マフィアを含む幅広い人脈と蓄積した財産の量はふたりを大きく引き離す。

 このところ、マーケットが荒れている。

 リース=ロスの上海到着は広く報じられ、マーケットは幣制改革がいよいよ実施されると身構えた。しかしその内容がわからない。元と銀との兌換レートが大幅に切り下げられるとか、元と銀の兌換は停止され元の対ドル、対ポンド・レートが大きく引き下げられるとか、兌換が停止されれば膨大な需要者を失った銀の価格は暴落するだろうとか、さまざまな噂が飛び交った。新聞が憶測記事を、あたかも政府から聞いてきたかのように報じるため、ただの噂がいつのまにかに真実であるかのように流布した。マーケットはパニック状態となり、元レートは乱高下を繰り返しながら十月初旬から中旬にかけて十%下落した。

 マーケットが荒れれば、そこで一儲けをたくらむ投機家が増える。多くの者が元レートの下落に賭けて元を売った。ただ、ささいな噂で大きく戻したりもするし、いつ底をつけて反転するかわからないので、人々は手持ち資金の一部を使って、小さな利で買い戻し、おそるおそる取引を続けている。

 靄齢も元を売り、ポンドを買っている。しかし、他のマーケット参加者とは異なり、細かな取引は一切おこなっていない。流動資産の全てを投入し元売りポンド買いを仕掛けたあとは、含み益が増減を繰り返しながらも着実に増えていくのをながめているだけだ。

 マーケット参加者のなかで靄齢だけが、この相場が最後にどこにゆきつくかを知っている。

 靄齢の投資において重要なのは経済状況や国際情勢を細かに分析することでも、チャートを描いて次の動きを予測することでもない。夫、孔祥煕の顔色を観察すること、それだけだ。普段は笑顔を絶やさず、温和で、のんびりとした性格の孔祥煕は、年に数回顔に緊張を湛え、なにかに脅えているかのような表情をするときがある。夫がそのような顔をしているときは決まって国家経済の重要事案が進行中のときなのだ。靄齢が、「なにを思い悩んでいるの」と問えば、夫は隠すことなく話す。相談にのってもらおうとでも思っているのか、説明は詳細で、明らかに機密であるはずの情報をも明かすのだった。

 靄齢が築いてきた財産のうちのかなりの部分は、夫から得た情報に基づいておこなった株式や不動産、貴金属等への投資によるものだ。

 孔祥煕は数週前より常にも増して思い悩んでいる様子であった。

 靄齢が、「どうしたの。老公(ラオゴン)(あなた)」とやわらかな声で訊くと、孔祥煕は「これは機密情報だからそとには漏らさないでおくれよ」と、珍しく前置きをしたうえで、まもなく実施する幣制改革について詳細を語った。

 その語った内容のなかに、幣制改革後の元の対ポンド・レートは一元十四ペンスから十五ペンス程度とする、というのがあった。

 他のマーケット参加者は薄氷を踏む思いで取引を続けているが、靄齢は近い将来に形成されるレートの数字を正確に知っているのだ。

 エルベ・ド・シエイエス路(現永嘉路)の邸宅の緑の芝生の庭に置かれたテーブルで紅茶を飲みながら、膨らみ続ける利益のことを思ってにじみでる笑みを抑えられずにいるときに、うしろからメイドに「お電話です」と声を掛けられた。

 リビング・ルームの受話器をとると、電話の向こうから悪寒のする声が聞こえてきた。

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 杜月笙※である。

 上海の秘密結社〝青幇(チンバン)〟の大ボスである杜月笙は、上海の貧家に生まれ、青幇首領格の黄金栄(フアンジンロン)に才覚を認められ引き上げられて、いまでは黄金栄にまさるともおとらない権力を握るに至っている。北伐を進める蒋介石に協力して上海の共産党や労働者の弾圧を実行し、それ以来、蒋介石政権に深く食いこみ、政府顧問のような地位を得ている。また、アヘン取引で貯えた潤沢な資金を背景にして浙江財閥注においても重要な地位を占め、複数の銀行の理事や董事長をも務めている。

「太太(タイタイ)(奥さん)。このところずいぶんと機嫌がいいようですね」

と、電話の向こうの杜月笙は鼻にかかった声でいった。下品な声だ。地位がどんなに上がろうとも、しょせんはチンピラなのだ、と靄齢は思った。

「あら、そうかしら。いつもどおりですわよ」

「昨日もずいぶんと気前よく買い物をしておられたようですね」

(監視されている)

 靄齢は受話器を強く握りしめた。

 上海の街じゅう至るところに杜月笙の息のかかった人間がいる。杜月笙が指示をだしさえすれば、靄齢がどこでなにを買ったか、どの店でなにを食べ飲んだか、そういったことはもちろんのこと、誰となにを話したかも筒抜けとなる。

「なにかご用ですか。いま少したてこんでいるのですけれど」

「最近ずいぶんとお幸せそうですが、その幸せをわけていただけないかと思いましてね」

「なんのことでしょうか」

と、靄齢はしらをきった。

「公債価格も金価格も匯(フイ)率(リー)(為替レート)も乱高下していて上海の資産家はみな毎日眠れぬ夜を過ごしています。でも、太太だけはぐっすりと眠っておられるじゃないですか。なにをご存じなのですか」

 意外だった。上海の隅々にまで情報の網をめぐらせ、国民政府との関係も深い杜月笙なら靄齢と同じ情報を得ていそうなものである。

 靄齢は優越感のようなものを感じ、

「私は投資にあまり興味がございませんで」

とほくそ笑んだ。

 杜月笙はなにもいわずに靄齢の次のことばを待っている。

 やむをえず靄齢が口を開き、

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「私はなにも存じませんよ。いったいなにをお知りになりたいのですか」

 杜月笙は小さく鼻を鳴らしてからいった。

「匯率ですよ。匯率はどうなるのです。毎日上がったり下がったりしていますが、最終的にどうなるのか、決まっているのでしょう」

 靄齢は受話器を握ったままで考えた。上海の金融界で巨大な力をもつ杜月笙なら靄齢が上海に置いた金融資産の状況を調べることくらい、クローゼットに吊るされ並ぶ衣装の列から目当ての服を探しだすよりずっと簡単なはずだ。ゆえにいま、なにも知らないといってみたところで、のちのちばれることは確実だ。知っていることでも問われなければいわないでいることはできるが、杜月笙相手に嘘をつけば、どんな報復をされるかわかったものではない。

 メイドがリビング・ルームにはいってきた。靄齢は険しい顔で、迷いこんできた野良犬を追い払うように手の甲を振った。

 メイドが部屋からでるのを待って靄齢はいった。

「ああ、それなら夫が話していたような気がしますわ。確か、一元が十四ペンスになるまで下落させるのだとか」

 靄齢は声を抑えてそういったが、夫に機密といわれた情報をしゃべることに罪悪感があったわけではなく、儲け話を他人に漏らすことが、なんとなく惜しいような気がして思わず小声になったのだ。

「十四ペンス?先月からいままでに元は十%以上下落していますが、十四ペンスになるのなら、さらに十%以上も下落することになる。にわかには信じられませんが」

「あら、そうですか。夫はそういっていたように思いますけど、勘違いかしら」靄齢は、信じたくないなら信じなければいい、と思った。しかし、話し始めると話がとまらなくなるたちであり、さらに情報を口にした。「なんだか、銀価格が高騰する前のレートがそのくらいだったのだとか。一元が十四ペンスくらいになったら、そのあとはそのレートで安定させるといっていたような気がしますわ。ああ、そうそう。銀との兌換はやめるともいっていたかしら」

 電話の向こうが沈黙となった。

 鼻の音も息遣いも聞こえない。考えているのだ。

 受話器からようやく声が聞こえた。

「つまりご主人は、元はさらに下落するとおっしゃった」

「そうです」

「いまより十%以上安いレートになるのだと」

「そうですわ」

「元と銀の兌換は停止されると」

「そうね」

 杜月笙はまたもや黙った。靄齢のことばの真偽をはかっている。

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