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『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第1201〜1260段落

本ページで『カレンシー・レボリューション』 第1201〜1260段落を立ち読みいただくことができます。

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「妻のことばというのは?」

 靄齢からなにも聞かされていない孔祥煕は、ただ戸惑うのみだった。

「しらばくれないほうがいい。なにも聞いていないはずはない」

「い、い、いえ、妻がなにをいったのでしょうか」

「太太が元はさらに下がるといった。だからわしは元を買った。ところが本当に下がった。それも暴落だ」

 いっていることが理解できない。妻は元が下がると教えたらしい。となれば元を売りそうなものだが、この男はその逆のことをし、損を被ったといって怒っている。

「おっしゃっていることの意味がよくわかりません。妻は元が『下がる』といったのですよね。『上がる』ではなく」

「いまそういったではないか」

 孔祥煕はゆっくりと首を傾げた。杜月笙は、ちっ、と舌打ちをして、

「太太は元は下がるといった。機密であるはずの情報を、あまりに簡単に、とまどうこともなくそういった。ならば、そのことばを嘘であると思うのが自然だろう。太太が逆のことをいっていると確信し、元を買ったのだ」

 いいがかりである。まさに開いた口をふさぐことができなかったが、相手はこの国の裏側を支配する杜月笙だ。一笑にふすことはできない。そんなことをすれば命を失う。

「そ、そ、それは。申し訳ないことをしました」

と、思わずそういったが、謝罪のことばを口にすることは、こちらが悪かったと認めることを意味している。すぐに後悔した。

「申し訳ないでは済まされん。申し訳ないと思うのならば、口だけでなく行動で示してもらおう」

「行動で?」

「わかるだろう。五万ポンドだよ。損をした分を返してもらいたい」

「い、い、いや。それは──」額に汗がにじみでるのを感じた。「それは、さすがにできかねます」

「できないことはないだろう。五万ポンドは私には大金だが、国にとっては微々たる金額じゃないか」

「むちゃをいわんでください」

「それに、新しい通貨制度のもとでは銀の裏づけなく紙幣をいくらでも刷ることができるようになるようじゃないか。この際ポンドじゃなくてもいい。紙幣を刷り増して、五万ポンド分の元で返してくれればそれでいい」

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 いっていることがむちゃくちゃである。恐ろしいが、反論せねばならない。

「妻がおかしなことをいったのかもしれませんが、しかし投資はあくまでご自身の判断でおこなったものではありませんか。投資に危険はつきものです。得をするときもあれば損をするときもある」

「わしは、太太が相場の乱高下のなかでも投資に成功しているという噂を聞き、なにか投資の参考になる助言をもらえればと思って電話をした。むろん太太が国の機密情報を知らされているなどとは思っていなかった。電話で太太ははっきりと元が下がるといった。それも一元十四ペンスという数字まで示して。知るはずのない情報をあまりにはっきりというものだから、なにか裏があると考えるのが当然だろう。ところが結果は完全に太太のいうとおりだ。明らかに太太が事前に機密情報を知らされていたことを意味している。これだけでも問題だが、そのうえ太太は、その情報を使って大きな利益を得た。これが世間に知れれば民衆は大いに憤慨する。きさまの評判は失墜し、地位にも悪影響があるだろうな」

 杜月笙は含み笑いを浮かべ、したから覗きこむようにして孔祥煕の目を睨んだ。

 ただ、この脅しは孔祥煕にはさして効果はなかった。孔祥煕自身は権限で得た情報をもとにした投資などおこなっていないが、それは公務が忙しく、かつ、すでに大きな資産を有し蓄財に対する興味を失っているためだ。権限で知り得た情報から利益を得ることをさほど悪いとは思っていないし、妻がそうして蓄財していることを責める気もない。民衆はすでに孔家が権限を利用して私財を貯えていると思っており、それを問題とする風潮にもない。妻が利益を得ていることが明るみになれば多少の打撃にはなるだろうが、自分に代わる者がいない状況のなかで、地位を失うようなことにはならないだろう。

「やはり、政府が投機の損失を補填することはできかねます。ご理解くださいと申し上げるしかない」

 杜月笙は鳶の目を光らせて、

「それが答えということだな。返す気はないのだな」

 杜月笙の視線の鋭さに孔祥煕は慄き身をのけぞったが、その姿勢のままでうなずいてみせた。

 銃か刃物で脅されるかとも思ったが、意外にも杜月笙は立ち上がり、無言で部長室からでていった。

 孔祥煕は額の汗をぬぐいながら大きくため息をついた。

 翌朝。

 孔祥煕はエルベ・ド・シエイエス路の自邸の二階寝室で身体を強く揺すられて目を覚ました。

 まぶたを開くと、そこには血の気を失った妻、靄齢の顔があった。

 靄齢はことばを発することなくカーテンの隙間から朝陽がこぼれている窓のほうを指さした。

 孔祥煕は目をこすりながら起きあがり、閉じられたカーテンに手をかけたとき、靄齢が小声で短く、「開けないで」といった。

 なにごとかと振り返ってみた靄齢の表情は真顔であった。

 孔祥煕はカーテンを右手の指先でつまみ、わずかに右方に引いてそとの様子を覗きみた。窓からは自邸の門扉と自邸前の道路をみおろせる。

 道路に黒いロングコートに黒いソフト・フェルト・ハットを身に着けた男が六人立っている。いずれも直立して動かず、門扉のほうをみつめている。

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 孔祥煕は振り返って訊いた。

「なんだ。あいつらはなに者だ。どこかで葬式でもあるのか」

 靄齢は別の方角の窓を指さした。指先が微かに震えている。

 孔祥煕は指さされた窓に近づきカーテンの隙間からそとをみた。

 そこにみえたのは、朝の弱い光を横から受けた庭木が穏やかな風に揺らいでいる姿だった。

 孔祥煕が振り返ると、靄齢はひとさし指を下方に向けて、

「下面(シャアメン)、下面、下面」

と繰り返した。

 カーテンのあいだから下方にみえる玄関の前には、精緻な装飾が施された漆塗りの、大きく縦長の箱が横たえられていた。

 孔祥煕のために用意された、棺桶であった。

 その日の午後、孔祥煕は中央銀行の理事会を急遽招集した。緊急動議をおこない、雄弁に動議の理由を語った。

「先日、ひとりの愛国者が日々下落を続ける外国為替市場を憂い、彼の全資産を投げ打ってわが国の通貨を買い支えようとした。これまで政府は匯率安定のために適宜介入をおこなってきたが、今月にはいってからは、幣制改革実施を視野にいれ、わが国通貨を安く誘導するために下落を放置していた。その愛国者はむろんそのことを知らなかった。彼は中央銀行が動こうとしないのをみて、私財を投じて政府の代わりを担おうとしたのである。ゆえにこの愛国者の損害は、匯率安定を任とする中央銀行がそのまま引き継がなければならない」

 理事たちは一様にばかばかしいと思ったが、ばかばかしい話を真剣に語る孔祥煕を前にして異議を唱えられるものはおらず、発言を控えて自分以外の理事がなにかをいってくれないかと期待した。

 ようやくひとりの理事が口を開き、

「その愛国者というのは、誰なのでしょうか」

と問うた。孔祥煕は、名をいうのを一瞬ためらった。しかし損害を補填することが決まれば払いこみ先の名はどうあっても必要になる。そう思いなおし、ひとこと「杜月笙」と小声でいった。

 このひとことは会議室に冷気を吹きこんだ。

 もはや発言するものはなく、孔祥煕の動議は理事会を通過した。

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