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『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第181〜240段落

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東京

 一九三五年九月六日。

イギリス大蔵省のエドマンド・ホール=パッチ※は、バンクーバーからホノルルを経て横浜に向かうエンプレス・オブ・アジアのダイニング・ルームで、訪中団の長であるフレデリック・リース=ロス※およびその夫人と朝食のテーブルを囲んでいる。テーブルには訪中団のメンバーであるイングランド銀行のシリル・ロジャースとリース=ロスの秘書であるミス・クラックネルも同席している。

 八月二十二日にカナダを離れてから朝食はひとりで済ますかロジャースとふたりでとることが多かったが、ようやく日本に着くというこの日、リース=ロスに初めて朝食に誘われたのだ。

 リース=ロス夫人が早朝に富士山の姿をみたとはしゃいでいる。

 エドマンドも夜明けにデッキにでて富士をみた。北斎でみた富士とは違って雪を冠ってはいなかったが、山肌が朝陽を浴びて次第に紅く染まっていくさまは、美しいというよりは畏怖を感じさせるものだった。そこに神を感じずにいることは難しかった。

 夫人は日本の田園風景をみるのが楽しみだと笑っている。

 リース=ロスはそれに応えて、

「東京にいるクライブ大使が中禅寺というところにあるビラに連れていってくれるそうだよ」

「どんなところですの」

「東京から鉄道で数時間でいけるそうだが、山々と深い緑に囲まれた美しいところだそうだ。湖があり、その湖畔にわが国所有のビラがあるとのことだ」

「とっても楽しみだわ」

「近くには昔の将軍が祀られた豪勢な寺もあって、日本の歴史を感じることもできる場所だそうだ。私も非常に楽しみだよ」

 リース=ロスはそういって笑い、夫人の肩を軽くたたいた。

 ロジャースもあわせて笑っている。

 しかしエドマンドは笑う気にはなれず、

(なにをのんきなことを)

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と頭のなかでつぶやいた。夜明けに紅い富士をみたとき、困難な仕事の始まりを思い、全身の緊張を感じた。その感覚がいまも続いている。

 黙りこんでいるエドマンドに気づき、夫人が声を掛けた。

「どうしたのですか。先ほどからなにか考えこんでいるようですけれど」

「いえ。考えごとなど」エドマンドは頬に笑みをつくって首を振った。「ただ僕は、今朝富士の姿をみたときに想像していたよりも裾野がずっと広いことを知って、美しさというよりも、われわれがこれからなにかとてつもなく重く大きなものにぶつかっていくような、そのような感じを抱きまして。それを思いだしていました」

「大きなもの、ですか?」夫人は口に手をあて小さく笑った。「地図をみると、日本は私たちの短い滞在のあいだに端から端まで歩けそうなくらいに小さいですよ。それにみなさんのお仕事は中国に着いてからが本番でしょう。いまから緊張するのは早過ぎますわ」

 エドマンドは夫人にあわせて口もとで笑ってみせたが、同意のことばは返さなかった。

 一九三五年春、イギリス政府は中国への金融財政専門家の派遣を決めた。

 その背景にはイギリス経済の置かれていた状況がある。

 イギリスは一九二〇年代、特に一九二五年の金本位制復帰以降、輸出産業を中心に不況に苦しみ、失業率は十%を超えていた。一九二九年からの世界恐慌がこの不況に拍車をかけるのだが、この状況のなかで膨大な人口を擁する中国経済に期待を寄せる声が高まっていった。重工業品、とりわけ鉄道建設関連製品の販売先として中国市場が大いに期待された。伝統的な輸出産業であり近年没落の一途にあった綿業界も中国への輸出に活路をみいだそうとしていた。イギリスにとって中国は国外への投資額の約六%を占める重要な投資先でもあり、中国経済の安定的発展は産業界の大きな関心事だったのである。

 こうしたなかでイギリス政府は銀価格高騰による不況に苦しむ中国への経済面での支援を決めるのだが、その関与のしかたについては政府内で意見の対立があった。

 すなわちチェンバレン蔵相は、中国に金融財政専門家を派遣して改革案を策定し、中国の経済インフラ整備に積極的に関与していくべきと主張した。一方で外務省は、中国に対して砲艦を河川に浮かべてなす旧来の威圧的な外交はもはや通用しなくなっていると考えており、経済面に限られる場合であっても内政への直接的な関与は避けるべきで、中国駐在大使を通じて助言をおこなう程度のことを想定した。

 結局は大蔵省の考えに沿って政府の首席経済顧問であるリース=ロスを派遣することとなるのだが、具体的な支援方法でも両省は対立する。

 大蔵省は次のように考えた。

 中国経済を建てなおし発展させるためには無秩序な通貨制度を改革しなければならない。銀本位制から離脱させ、ポンドやドルなどにリンクする外貨本位制採用が有力だが、そのためには中国はあらかじめ外貨を対外支払い準備として余裕をもって有していなければならず、よって借款を付与する必要がある。

 これに対して外務省は、中国に対して借款をおこなえば、いわゆる天羽声明注にみられるような日本のアジア・モンロー主義注的な姿勢からして日本が強く反発することは必至で、マクドナルド首相が日本に宥和的姿勢を採っていることもあって、借款を付与することに難色を示した。

 そこで大蔵省は極めて複雑なスキームをひねりだした。すなわち、借款は満洲国に対して日本と共同でおこなって、満洲国はその資金を、満洲国独立前に中国が有していた債務の一部を負担するという名目で中華民国政府に対して支払うというものである。このスキームが成立すれば満洲国はイギリスおよび中華民国による実質的な承認を得ることになる。満洲国承認という喉から手がでるほどにほしいはずの利益を日本に与えることにより、日本の反発を回避しようというのだ。

 しかし外務省は、旧態依然とした帝国主義的なやり方はナショナリズムの高まり著しい中国に対してはもはや通用しないと考えており、中国に満洲国の実質的な承認を強いるかのようなこのスキームに強く反対した。

 この論争については、六月に外相が替わり、新外相が大蔵省側の案を支持したことにより一応の決着をみる。

 そして八月十日、リース=ロスがイギリスを出発するのだが、極めて難しい東アジア情勢のなかで、外交上のいわば爆弾を抱え、かつ、国内でのコンセンサスが十分に形成されているとはいい難いミッションであった。このチームのゆく先に種々の困難が待ち受けていることは容易に想像することができた。

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 エンプレス・オブ・アジアは昼過ぎに横浜港に接岸した。

 一行は昨年まで財務官注としてロンドンに駐在していた津田順一大蔵事務次官とイギリス大使館の商務参事官に迎えられ、すぐに車で帝国ホテルへ向かった。

 日本到着の九月六日は金曜日であり、一行は週末をロバート・クライブ大使が避暑のために訪れている日光で過ごすため、鉄道で東京を離れた。中禅寺湖で泳ぎ、華厳の滝を観覧し、温泉につかり、東照宮を参拝するなどして楽しんだ。

 東京に戻り、九月十日火曜日の午後四時、リース=ロスは広田弘毅(こうき)外相と会見した。クライブ大使と、三年前に上海で爆弾事件に遭って片足を失い歩く姿が痛々しい重光(しげみつ)葵(まもる)外務次官が同席した。

 会見は全く低調だった。

 リース=ロスと広田は中国経済の現状に対する見方からしてすれ違っていた。

 リース=ロスが、

「中国の経済不況は深刻で、ことに上海方面の状況は厳しい。もはや放っておくことはできません」

と力をこめていうと、広田は、

「中国にいるわが国銀行から目下の不況は軽微との情報を得ています。上海の経済が悪いとしても、それは広い中国の一部のこと。他地域と状況は異なることを忘れてはなりません。景気後退の原因は国内の資金が銀行預金として滞留し、一時的にアイドル・マネー(投資等に活用されていない資金。遊資)が発生しているせいです。財政が公債を発行してアイドル・マネーを吸いあげればよいのです」

と、冷ややかに答えた。

「国民政府は借金漬けであり、このままでは財政破綻に至ります。公債を大量に発行することはできません」

と、リース=ロスも反論した。

 リース=ロスは中国経済は構造的問題に陥っており危機的状況にあると考えているのに対し、広田は景気循環のなかでの一時的景気後退に過ぎないと楽観的に考えている。

 広田が

「天災の発生により農業や養鶏などが相当やられているようです。それが中国の不況を深くしたのでしょう。治水事業などが近年全く顧みられないために水災が猛威を振るっているのです」

と、あたかも中国指導者の怠慢による人災であるかのようにいうと、リース=ロスは、

「政府に予算の余裕が全くなく、治水などに手がまわらないのです」

と、財政状況の困難を強調した。

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