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『ステーツマン』立ち読み 第121〜180段落

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 薄暗いロビーで待っていると、ほどなくして奥の部屋から男がでてきて、嬉しそうに「ジョージ」といいながら両手を広げた。小島も「TV(ティビー)。久しぶりだな」と応え、ふたりはしっかりと抱きあった。アジアの男同士らしくない所作に秘書は戸惑いの表情をみせているが、ふたりは構わずにお互いの肩を強く叩きあった。

 宋子文は自分の姓名を英字では Tse-Ven Soongと綴り、TVはその頭文字をとったもので、アメリカでの友人たちはみな彼のことをTVと呼ぶ。小島は東京高等商業学校を卒業したのちにハーバードに留学し経済学を専攻したのだが、そのときに子文と出会った。年齢が近く、国費留学生ではなく、一代でたたきあげて財を成した父親の教育方針でアメリカに渡ったという共通点もあり、ふたりは馬があった。

「わるかったかな。アポイントメントもなく急にきて」

「きみならいつでも大歓迎だ」

と、子文は笑った。

「漢口の領事館経由でアポイントメントをとろうとしたんだが、『おまえのような木っ端記者が一国の大臣に簡単に会えるわけはなかろう』といわれてしまってね」

「ハハハ。この不安定極まりない政府を日本が一人前扱いしてくれているとは思わなかったよ。財政部といってもこの程度の規模に過ぎない」

 子文は、この部屋がその全てだというように、両手を広げてみせた。

「確かにこの建物はずいぶんと小ぢんまりしているね。むろん財政部の多くのスタッフは広州に残っているのだろうが、それにしても狭い。昨日、外交部の前を歩いて通ったが、あちらの方がずいぶんと大きいな。外交部の正面に通りを隔てて建つボロジンの邸宅ですらここよりずっと立派だった。ここはきみの公邸で、財政部の機能は別のところにあるのかとも思ったが、そうではないのか」

「財政部であり、僕の住宅であり、さらに姉さんもここに住んでいる。だから姉さんが客を迎える場合の接見の場でもある」

「財政状況の苦しいおりに財政部長が率先して倹約をしてみせているということか。みえを張りたがる輩がやたらと多いなかで好感がもてるよ」

 子文は照れたように小さく鼻を掻いた。

「それでジョージ。武漢にきた目的はなんだ。政情はみたとおり相当に不穏だ。こんなときにわざわざくるほどの重要案件かい」

「いや。きみの顔をみにきただけだよ」

「おいおい。恋人に対してのようなセリフをいうなよ。気持ちが悪い」と子文は笑ってから、思いだしたかのように「ひょっとして、きみの目的というのは──」

 子文は語尾をのばしつつ横の壁をみた。そして小島に視線を戻し大げさに二度うなずいてみせた。

「な、なんだよ。ひとりで納得するなよ」

「姉さんだな、きみの目的は。姉さんに会いにきたんだろう」

「お、おい。ばかなことをいうな」

 小島は明らかに動揺した。

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「ハハハ。わかりやすい男だな。しかしきみは運が悪い。姉さんは隣の部屋に住んでいるんだが、数日間漢口にはいないのだよ」

 宋慶齢の留学期間は一九〇七年から一九一三年で、その後半が小島の留学期間と重なっている。ジョージア州にいた慶齢は弟のいるボストンを数度訪れており、そのたびに小島は慶齢と会い、ともに食事をしたり、キャンパスや市内を案内したりした。慶齢はそのとき二十歳前後で、その美しさはまさに眩いばかりで、ときにみせる微笑みは南の島の浜辺に咲く花のように華やかで、それでいて、しぐさは常にしとやかだった。小島は妹の美齢とも交流があったが、妹の方はしとやかということばと最も遠いところにいる活発な娘だった。美齢に「少しは姉さんを見習えよ」というたびに彼女は口を尖らせた。

 子文は落胆の色を隠せない小島を楽しそうにみている。

「残念ながら姉さんには会えないが、明日、美齢が武漢に遊びにくる。美齢に会っていってくれよ」

「美齢か。懐かしいな。しかしボストンにいたころから十年以上が経ったということは、彼女ももう三十だろう。縁談はないのか」

 小島がそう訊くと、子文は眉のあいだに皺を寄せた。

「うん。それがね。ちょっと面倒なことになりそうなんだ」

「なんだ。面倒なことって」

「どうやらジェネラル(将軍)が美齢に懸想しているらしい」

「ジェネラルって、蒋介石か」

 子文はうなずいた。小島は顎に手を当て考えてから、

「それはつまり、蒋介石が孫文の義兄弟の地位と宋家の財産を狙っているということか」

「そう考えるのが妥当だろうね。仮に総司令がほんとうに美齢のことを好いているとしても、それは美齢が孫文夫人の妹であり、巨万の富をもつ実業家の孔祥煕夫人の妹でもあるからだろう」

「軍事費をいくらでも賄ってくれる男の妹ということもつけ加えた方がいいな」

「それはどうかわからないが、いずれにしてもかなり打算的であるのは間違いがない」

「いや、ちょっとまて」小島は顎をさすり、「蒋介石には妻がいるんじゃないか」

「そうだ。十代のときに親にいわれて結婚して、すぐに男子が生まれている。三十になるころに歌手を妾(しょう)にした。そして三十五のときに新しい妻を迎えている。もとの妻と妾は慰謝料を払って遠ざけたようだ」

「まさか美齢を妾にしようというのか。まあ袁世凱も九人の妾がいたというし、中国の指導者には当然のことなのかもしれんが、あの誇り高い美齢が妾の地位で納得するとは思えないが」

「いまの妻とも別れるつもりだろう。しかし姉さんは、いまの妻と別れて正妻として迎えるのだとしても絶対にだめだと反対している。姉さんは子供がいる男との結婚は認めないといっている」

「彼女がいいそうなことではあるな」小島はうなずいたが、すぐに首を傾げ、「いやまて。孫文には慶齢と結婚する直前まで妻がいたし、子供もいたはずだ」

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「そのとおりだよ。そこは矛盾しているのだけれど、姉さんはともかくこの結婚を認めたくないようだ」

「それほどまでに蒋介石を嫌っているということか」

「まあ、そうだ」

「しかしこの問題は美齢自身が断れば済む話だろう。相手は四十過ぎの中年だ。美齢にその気はないのだろう」

「そうだと思うけれども──」子文は小さくため息をついた。「嫌いというわけでもないらしい。蒋介石を英雄だと思っているようだ。強い男に魅かれるという感じはあるのかもしれない」

「なるほどね。きみは慶齢と蒋介石のあいだに立って調整をしなくてはならなくなるかもしれないわけだ。確かにこれは面倒だ」

「わかってもらえてありがたいよ。いっそのこと、きみが美齢に求婚してもらえないかね」

「それは悪い冗談だ」

 小島はそういってすぐに子文の妹をそしる失言だったかと思い、子文の顔を覗きこんだ。

 子文は「フフッ」っと小さく笑って話題を変えた。

「それでジョージ。この街の印象はどうかな」

「緊張状態は想像していた以上だ」

「これでもわれわらが武漢にはいる以前に比べれば良くなっているのだよ。ストライキもデモ行進も半減した」

「僕の目には街全体が真っ赤に染まっているようにみえる」

「ピンクといったところだろう」

「日本人居住者の使用人たちのストライキはかなり長引いたようだな。漢口の日本総領事が蒋介石に助けを求めたが、蒋介石は沈黙したと聞いた」

 武漢在留邦人に雇われるコックやボーイらが組織する労働団体が賃金の一律値上げ等を要求し、一九二六年十一月二十日より集団でストライキをおこなった。団体会員が水道電燈を破壊したり、邦人に対して罵言し殴打負傷させる等の事態に発展したため、日本政府は蒋介石に対して事態収集を依頼したが、蒋介石は回答しなかった。

「黙っているしかないのだろう。心の底では労働者を武力で鎮圧してしまいたいと思っているだろうけどね。しかしそれをいまやれば共産党との合作は終わることになるし、党内の左派とも対立し、国民党が分裂することになるかもしれない」

「北伐を再開するために、いま共産党や左派を怒らせるわけにはいかない、ということか」

「そういうことだ」

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