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『ステーツマン』立ち読み 第481〜540段落

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 武漢での激務を思えば暇といわれれば腹が立つ。しかしそれは顔にはださず、子文は落ち着いた声でいった。

「確かに上海でやらねばならないことは山のようにあります。税制を改正し、徴税の仕組みも整えなくてはなりません。中央銀行を開業して紙幣を発行しなければなりませんし、公債を発行して資金調達もしなければなりません。まさに寝る間もないでしょう。ただまあ、広州と武漢でやってきたことの繰り返しではあるのですが」

「しかし規模が全く違う。湖北、湖南、江西はいうに及ばず、広東に比べても江蘇、浙江の経済力はけた違いに大きい。この地の経済掌握は革命完遂のための必須の条件といっていい」

「そのために全力を尽くすつもりですが、まずは財政部の出先機関の設置です。すぐにも財政部の上海弁事処を設置する予定で、ここ数日はそのための雑務に追われるでしょう」

「ああ。そのことだが──」と、蒋介石は語尾をのばした。「実は、当地の財政関連の委員会を設置することにした。名称は江蘇兼上海財政委員会だ。委員もすでに決まっている」

「それは──」と、いいかけて子文は口を噤み、一瞬考えてから「いけない」と短くいった。

「しかしすでに決めたことだ」

「財政部の出先機関が開設されるまでの暫定措置として委員会設置を決められたのだと思いますが、僕がこうして上海にきたのだからもはや必要ないでしょう。財政部のスタッフも数人こちらにきていますし、必要となればすぐに増やすこともできます」

 そういいながら子文は、蒋介石の動きはあまりに早い、と思っていた。子文が上海にくるよりも先に委員会を設置しようとしたと思えなくもない。慶齢のいったとおり、蒋介石は上海の富を独占しようとしていると疑いたくもなる動きである。

 蒋介石は顎に手をあてて、探るような目で子文の目をみた。そしてそのまましばらくなにかを考えたのちに、

「まあ、いいだろう。では委員会は当面開催しないこととする」

「当面開催しないのではなくて、委員会の設立自体を中止していただけませんか。形だけといえどもふたつの財政機構が並立することになってしまい、財政部がおこなう施策の執行力に悪影響を及ぼすことが予想されます」

「しかしすでに記者発表をしてしまっている。明日の新聞には委員の名簿が掲載される」

「僕が上海にくることは数日前にはわかっていたではないですか。それに中央執行委員会全体会議が僕を上海に派遣することを決めたのは二週間も前のことです。上海に財政委員会を設置すれば、武漢は蒋総司令が武漢とは離れて独力で民政をおこなおうと考えていると捉えるでしょう」

「別に構わん。いまはそんなことに構っている時間はない」

「民衆は蒋総司令と武漢との対立を想像します。国民党に溝があると思われては、北伐の推進にも支障をきたすのは必定ですよ。国民党の分裂により北方軍閥の優位が増したと人々が考えれば、中立的勢力は北になびくでしょう。それに、われわれの資金調達は難しくなり、北方は容易く資金を得られるようになります」

「北伐軍が上海にはいる前であればあるいはそうだったかもしれんが、いまやわれわれは上海をおさえ、優位を決定的なものとした。浙江財閥はもはやわが手のうちにあり、北に流れることはない」

 子文は蒋介石の目を見据えて、

「総司令は武漢と決別するおつもりなのですか」

と、ゆっくりといった。蒋介石は小さく笑い、

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「そうとはいっていない。そう思われても構わないといっているだけだ」

「江蘇兼上海財政委員会の設置は、上海の経済力を武漢にわたすまいとしているからではありませんか。それはすなわち、武漢との決別を決めておられるからではありませんか」

「そんなことはない」

「私は党内に右派と左派があり両者には意見の相違があって論争がなされることは正常なことだと思っています。しかし党をふたつに割ることには反対です。多少の意見の相違はあっても論争により意見を調整し、諸派が一丸となってこの国の改革を推進していかなくてはなりません」

 蒋介石は黙り、再び子文の目を探るようにみた。そして

「上海で姉上に会ったか」

と、唐突に訊いた。

「いえ、まだ会ってはおりませんが。それがなにか」

 蒋介石はなにかに納得したかのように首を縦に揺らし、

「とにかく、記者発表までしたものを、いまさら引っこめることはできない」

と、きっぱりといった。子文は少し考えてから、

「では、司令から声明をだしていただけませんか。『宋子文および財政部を支持する。上海、江蘇、浙江のいかなる機関も団体も、革命完成のために宋子文および財政部の施策に従うように』と」

「ああ。いいだろう」

と、蒋介石は短くいった。

 翌三月三十一日。上海各紙に江蘇兼上海財政委員会の委員一覧が掲載された。委員には陳光甫(チャングアンフー)、虞洽卿(ユーチアチン)、銭永銘(チェンヨンミン)など上海実業界、金融界の重鎮を中心に十五人が名を連ねた。上海陥落後わずか一週間ほどで委員会が組織されたことになるが、これは蒋介石が当地の金融・実業界をいかに重視していたかを物語るものである。蒋介石は南昌に腰を据えてからすぐに腹心を上海に派遣し銀行家などに接触させている。それを受け、早くも二月に陳光甫、虞洽卿、銭永銘などが蒋介石への支援を申し入れた。蒋介石が労働組合や共産党に打撃を与えてくれるものと期待しての支援である。

 この翌日から始まる一九二七年四月は、記しておくべき事項が多い。

 四月一日。中山艦事件による政治的混乱のなかでフランスに亡命した汪兆銘が帰国し上海にはいった。それを聞きつけた蒋介石はすぐに汪兆銘を招き、蒋介石に近い党幹部たちを同席させて会議を開くこととした。場所はモリエール路(現香山路)にある孫文邸、すなわち慶齢の留守宅であり、いま子文が寝起きをしている家である。 

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 この孫文邸は現存し、〝孫中山故居記念館〟として公開されている。なかにはいってみるとすぐにわかるように一般的な住宅であり、十数人が着席して会議をおこなえるような部屋がない。

 リビング・ルームのソファ・セットで汪兆銘と蒋介石が向きあって座り、その他の会議出席者は立ったままでソファ・セットを取り囲んだ。会議といっても汪兆銘ひとりを吊るし上げるような雰囲気である。蒋介石らは汪兆銘に対しボロジンの追放と共産党との決別を迫った。しかし汪兆銘は首を縦に振ろうとしない。蒋介石らは泡を飛ばして訴え、土下座するものまでいたが、汪兆銘は「扶助農工が孫中山先生の遺志である」といって、最後まで共産党排除に同意しなかった。

 ちなみにこのとき子文は単に会議の場を提供しただけの家主のような立場であり、出席者のなかで最年少であることもあってソファ・セットを取り囲む輪にもはいらず、リビング・ルームに隣接するダイニング・ルームのテーブルにひとりで座り、終始沈黙を保ち討議を聞いていた。

 四月五日。汪兆銘と共産党指導者である陳独秀(チェンドゥシュウ)との連名で、国民党と共産党との〝聯合宣言〟が突如新聞に掲載された。孫文邸での会議に出席した者たちは大いに驚いたが、彼らをしりめに、その日の夜、汪兆銘は忽然と姿をくらます。密かに武漢への汽船に乗船したのだった。

 四月八日。蒋介石は財政部の活動を支持する旨の布告をだした。江蘇兼上海財政委員会は活動を開始しておらず、すなわち蒋介石は三月三十日に子文と交わした約束を守ったのである。翌四月九日に子文は財政部の上海事務所設立を発布した。また、上海の中央銀行設立準備室を同事務所内に開設した。

 そして四月十二日。中国近代史において極めて重要な意味をもつ日である。この日、いわゆる〝上海クーデター〟が発生した。

 蒋介石の命を受けた国民革命軍はこの日の未明から上海の労働組合員を次々に逮捕し、労働者糾察隊(共産党の指導下で組織された労働者の武装組織)に対し武装解除を求めたが応じなかったため強行突入し、労働者数百人が死傷した。その後数日にわたってデモ隊や武装労働者に対する武力鎮圧が実行された。逮捕者数は数千人にのぼり、国民革命軍の発砲を受けて死んだ者数百人を含む多数の死傷者がでるに至った。

 蒋介石は中国の指導原理としての共産主義の排除を断行したのである。同時に、プロレタリア階級を切り捨て、国民党内左派とも決別し、浙江財閥を中心とするブルジュワジー層を支持基盤として国家を建設していくという決意をはっきりと示した。

 十七日、武漢側は蒋介石の党籍を剥奪、各職責から罷免し、さらに蒋介石に対する逮捕状を発出した。これに対し蒋介石はすぐに行動し、南京で〝国民党中央執行委員会政治会議〟を開催し、十八日、国民政府の成立を祝う式典を開催した。主席には国民党長老の胡漢民(フーハンミン)が就いた。

 上海クーデターによって中国の近代史はその進路を大きく変えることになるのだが、子文の身のうえにも上海クーデター勃発からわずか一週間のあいだに大きな変化が起こる。

 上海クーデター勃発の日、子文は上海金融界から三百万元の借り入れをおこなう交渉をする予定にしていた。朝から上海市内各所で軍と労働者との衝突が起きているとの情報を得てはいたが、子文は予定どおりに市内の殺伐とした空気とは無縁のイギリス租界内の餐廰に銀行や銭荘注の経営者たちを集めて宴を張り、借款を申し入れた。

 翌十三日、上海金融界は子文に対し、借款で得た資金を上海周辺でのみ使用し、その使途を明示することなど五つの条件を提示した。上海金融界はこのまま南京と武漢とは分裂すると予想し、南京側のみを支援するという姿勢を示したのである。

 十五日。広州で上海と同様の粛清がおこなわれた。国民党右派で広州にいる古応芬(グーインフェン)、李済深(リージーシェン)らが武漢政府からの離脱を宣言し、あわせて子文が兼務していた広東財政庁長に古応芬が、広東中央銀行総裁に李済深がそれぞれ就いた。武漢の国民政府は歳入の多くを広東省に依存しており、広東が離脱することは武漢国民政府の財政が危機的状況に陥ることを意味していた。

 同日、武漢国民政府は経済的困難に対処するため戦時経済委員会を設立した。子文もその委員のひとりとされたが、むろんこのとき子文は武漢におらず、汪兆銘らが本人の承諾を得ずに構成員に加えたのである。

 同委員会は十七日に〝現金集中条例〟を決定した。この「現金」を英訳するならばハード・カレンシーであり、銀本位制度のもとにある中国においては現物の銀のことを指す。つまりこの条例は、現銀を中央、中国、交通三銀行等に集中させ、市場では中央、中国、交通三銀行発行の紙幣のみの流通を認めて現銀の流通および域外への持ちだしを禁じるというものである。資産家たちが南京と武漢との対立をみて現銀をより安全な上海に移しており、その額は政府の歳出額をもうわまわるほどの巨額にのぼっていた。この経済的危機への対処策として、子文が不在であるにもかかわらず、緊急に条例が公布され即日施行された。

 子文は十七日の夜に武漢からの電報で現金集中条例の施行を知った。

 子文は、事務所で秘書から手渡された電報を握りしめ、「いけない。これはいけない」とつぶやいて唇を噛んだ。そして「武漢は自分で自分の首を絞めている」といって、天井を仰いだ。

 秘書が、

「現銀の取引を禁じて国有銀行発行の紙幣のみの流通を認めるというのは部長が以前より考えておられたものですよね。部内で検討していたものが急遽施行されたのだと思いますが、なぜ問題なのですか」

と訊くと、

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