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『ステーツマン』立ち読み 第601〜660段落

本ページで『ステーツマン』 第601〜660段落を立ち読みいただくことができます。

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全文は
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 黒いシルクのドレスをまとった宋慶齢が現れた。

 慶齢はドアをでて立ち止まり、たおやかで、おだやかでありながらも、明るくて、甘い笑顔をみせた。そして、

「ジョージ。きてくれたのね」

と、やさしく透明な声でいった。

 小島は魔術にかかったかのようにその場で動けなくなった。このロビーには太陽光がほとんどはいってきていない。明るい奥の部屋を背にして開いたままのドアの前に立つ慶齢が、まるで全身から光を発しているようにみえた。

 秘書に「さあどうぞ。おはいりください」といわれるまで、小島の意識はどこかへ飛んでいた。

「ほんとうに久しぶりね。何年ぶりかしら」

「十四年かな」

「もうそんなになるのね」

「僕の方はなにも変わっていないけど、きみにはずいぶんといろいろなことがあった」

 身体は少しだけ丸みを帯びたようで、それが彼女の包みこむような雰囲気を一層強くしていることが外観の唯一の変化で、艶やかな小顔と百合の花びらのように白くてなめらかな肌には一切の変わりがない。

 しかし慶齢はこの十四年間で、結婚し、夫と死別し、この国で最も尊敬される女性に仕立てられ、国家のゆく末を担う最も重要な指導者のひとりにまつりあげられている。これほどの環境の変化を経験した女性はほかにはいない。

「そうね──」

といって、慶齢は視線を左に落とした。記憶をたどっているようだが笑みはなく、楽しい思い出を振り返っているようには見えない。

 視線を戻して慶齢が訊いた。

「武漢にはいつきたの。街に活気がなくて驚いたでしょう」

「どうかな。そういえば、あまり活気はないかな」

 小島が武漢にはいったのは昨日で、駅に着いてからはフランス租界内のワゴン・リ社経営のターミナル・ホテルまで歩いただけだ。今日もホテルからここまでまっすぐ歩いてきたので街の様子をほとんどみていない。ただ、いわれてみれば路上の人の数がずいぶんと少なかったような気もする。なかでも、外国人の姿をみた覚えがない。租界の西洋の街並みのなかに西洋人がいないのは異様ともいえる。

「租界に住んでいた外国人が上海や国外へどんどんでてしまっているの。漢口に残っている外国人は軍人ぐらいのものね。街を歩けば軍服と銃剣ばかりが目につくわ」

「閉まっている商店が多いようだね」

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「そう。最近ではそとで食事をするのにも苦労するようになったわ」

「武昌や漢陽は?あちらはもともと外国人が少なかったから、あまり変わりはないんじゃないのかい」

「モノの不足が深刻なの。長江の下流からはもちろん、武漢の周辺からも、蒋介石の軍隊が邪魔していてモノがはいってこない。外国企業はどんどん逃げていくか、残っている会社もここ数か月労働争議が多くて生産が不十分なの」

「じゃあ、物価が騰貴しているだろう」

「ええ。なかでも食料品が不足していて、農産物のインフレーションがひどい」

「企業の撤退が続いているなら雇用もよくなさそうだな」

「漢口では街でみかけるひとが減ったけれども、武昌ではむしろ路上にひとが増えているわ。彼らの多くは失業者」

「そうか。なかなか厳しいな」

 慶齢はかぼそいため息をつき、

「どうすればいい、ジョージ。あなたの意見を聞かせて」

と、すがるような声でいった。

 小島は答えに窮した。宋子文とともにアメリカで新古典派の経済理論の光を浴びた小島は共産主義に対して批判的であり、弱者に対して同情する優しさをもちあわせていない分、宋子文よりもその度合いが強いといえる。共産党との連携を捨てられない武漢政府は沈みゆく船だと思っている。慶齢を船から降ろさなければならない。しかし慶齢は、夫、孫文の思想という柱に自らの身体を括りつけ、船とともに沈もうとしているようにみえる。

「どうかなぁ」

と、小島はあいまいにいった。慶齢の瞳にまっすぐにみつめられているときに、彼女が正しいと信じる武漢政府の体制を批判することばを発することなどできない。

 小島は話題を変えようと思い、この部屋にはいったときから気になっていたことを訊いた。

「目が赤いようだけど、どうした。僕に会えたのが嬉しくて思わず泣いてしまったのかな」

 慶齢の手にはレースのハンカチーフが握られている。

 慶齢は恥ずかしそうに顔を伏せた。

 小島はむろん冗談でいったのだが、慶齢の反応にとまどった。

「ジョージがきたと聞いて昔のことを思いだしてね。アメリカでの楽しかったときのことを。それから、子文のこと」

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「ああ、なんだ、そういうことか」

「なに?『そういうことか』って」

「あっ、いや、なんでもない」

「子文はどうしているかしら」

「上海のきみの家で軟禁状態にあるらしいじゃないか」

「そうなのよ」慶齢はつぶやいた。「やはりあの子がいないと、だめなのかしらね」

「まあ、TVひとりがいても、どうなるものでもないと思うよ」

「そうかしら。広州で短いあいだに中央銀行をつくって、財政を立てなおして、北伐の費用までつくりだしたのよ。子文なら、いまの武漢の状況もきっとなんとかするわ」

 慶齢が希望をみつけたかのような明るさでいったので、小島は反論を控えた。

「子文はここに帰ってくるのかしら。蒋介石に足止めされているのではなくて、武漢を捨てて南京にいくつもりでいるのではないかしら」

「いや。そんなことはないと思うよ。彼が南京につくことを決めたのだったら南京政府の要職に就いているはずだよ。武漢に帰りたくても帰れない状態にあるのだと思う」

「ねえジョージ。あなた、上海で子文の様子をみてきてくれない?できれば連れて帰ってきてほしいけど、それが無理でも、子文の様子を教えてくれるだけでもいい」

「つまりそれは、上海にいったあと、もういちどここに戻ってこいという意味かい。政情不安なこともあって本社は僕が武漢にくることにいい顔はしないんだ」

「そうよね。迷惑よね。でも私は、子文かジョージのどちらかは必ずここに戻ってきてくれるかと思うと、すごく嬉しいわ」

 小島は日本語で「よわっちゃったな」とつぶやき、笑いながら首のうしろを小指でかいた。

 小島は、上海で子文に会えたとしても、武漢に帰ることを勧めるのはどうかと思っている。

「どうなるかはわからないが、やってみるよ」

「ありがとう」

と、慶齢が嬉しそうに笑ったとき、秘書が部屋にはいってきて客の来訪を告げた。アメリカ人の新聞記者が訪ねてきており、子文の紹介状を携えているという。

「ごめんなさい。次のお客様がきてしまったわ。ねえ、ジョージ。今日の夜は空いているのでしょ。夕食でもいかがかしら」

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