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『ステーツマン』立ち読み

本ページで『ステーツマン』を立ち読みいただくことができます。

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 子文は「すぐにでるぞ」といって部屋を飛びだした。秘書は「車の用意をしますので、しばしお待ちください」と慌てていいながら子文のあとに続いた。

 マジェスティック・ホテルは、南側をバブリィングウェル路(静安寺路・現南京西路)、北側をアベニュー路(愛文義路・現北京西路)に面した広大な敷地に建てられた高級ホテルである。大理石をふんだんに用いた内装、義和団の乱の際に北京の皇族の家から持ち去られたものといわれる豪華な家具、複数の広大な庭園などで知られる。

 急に訪ねてきて小島譲次を驚かせた子文は、小島を庭園のうちのひとつ、イタリアン・ガーデンに連れだした。

 半年ぶりの再開に右手を握り合い、左手で肩を強く叩きあったあとはずっと口を噤んでいた子文が、梅雨の合間の太陽光を反射して白く輝くしぶきを散らす噴水の横にきて、ようやく口を開いた。

「いまきみがきてくれるとはね。暗い海原のうえで彷徨っているときに、北の空に動かない星を見つけたような気分だ」

「大げさだな。でも、いつもきれいになでつけられているはずの髪が、いま起きたばかりのようになっているのをみれば、あまりいい精神状態ではないことは察することができる」

 子文は素早く手を頭に当て、髪をおさえながら、ばつが悪そうに笑った。

「きみの精神状態を悪くしているのは蒋介石の監視かい。それほどまでに監視が厳しいということか。庭の中央にくるまで口を噤んでいたのも監視者に話を聞かれたくないと思ったからか」

 子文は左右をみまわしながらいった。

「ここまで歩いてきたのは確かに監視者がどこかにいるためだが、僕が滅入っているのは、そのためだけではないよ」

「そうか」

「なぜ滅入っているか、訊かないのかい」

「訊くまでもない」

 子文は友の察しの良さに満足を覚え、

「やはり北の空の星だ」

といった。

「それで、今夜か、脱出は」

「なに?」

といった自分の声の大きさに驚き、子文は再び左右をみまわした。

「なぜそれを知っている」

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「先日、きみの姉さんに武漢で会ったんだがね。彼女の部屋からでるときに僕の次の訪問者だというアメリカ人のジャーナリストをみかけた。その男をついさっきホテルのロビーでみかけたんだよ。男は慌てたようにそとからロビーにはいってきて、コンシェルジェに『今晩ロースル・ロイスを使えるか』と訊いていた。ロールス・ロイスというのは、いまホテルの前に停めてある車のことだな。あれならばブラインドを閉めれば後部座席に座っている人間の顔は見えない。ちなみにその男は武漢で、慶齢の部屋の前で彼女をみた瞬間、棒立ちのままで気を失っていやがった。間違いなく惚れたな。いまやあの男は慶齢のいいなりのはずだよ」

「なるほど。そういうことか」と子文は納得したが、すぐに表情を硬くし、「いやまて。じゃあシーアンに尾行がいたならば、もはや今晩の計画は露呈していることになるじゃないか」

「ああ、そうだな。僕もずいぶんと油断した男だと思ったよ。ただ、一応ロビー周辺をみて回ったが、尾行されているようではなかった」

「そうか──」

といって、子文はまたもや周囲をみまわした。三度目である。そして、思いだしたかのように訊いた。

「ん?きみも姉さんに会ったあとで僕を訪ねてきたということは、姉さんにシーアンと同じことをいわれて上海にきたということか」

「まあ、そうだな。いや、ちょっと違うか」

「違うのか」

「あのアメリカ人はきみと一緒に武漢に帰ることになっているのだろうけど、僕の方は、きみが武漢にいくのなら僕はいかないことになっている。きみが武漢へいかないのなら、僕はその報告のために武漢にいくが」

「つまり?」

「僕は慶齢の顔をもう一度みたい」

といって、小島は照れた。

「なんだそれは」子文は一瞬考えて、「つまりきみは姉さんにいわれて僕を連れ戻しにきたが、僕が武漢へいかなければいいと考えている。そういうことか?」

「まあ、そうかな」

「きみは僕が武漢へいくべきではないと考えているんだな」

「武漢にいくかどうかを考えるのはきみだ。僕じゃない」

 そのとき噴水が止まった。噴水の音が消え声が周囲に通りやすくなったのを嫌い、子文は噴水の畔を離れて庭園の奥へと歩き始めた。そして歩きながら、自分の悩みがどこにあるのかを語った。

 ふたりは木々の茂った庭園を抜け広大な芝地にはいった。夏の夜にはここで露天の映画上映がおこなわれ、二千人近くもの租界の人々が猛暑を逃れて映画を楽しむ。

 十分以上も歩いているが子文の話は終わらない。その冗長を嫌い小島は

「一度聞いた話を二度聞かされているような気がするが」

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といって遮った。

「そうか。それはすまない」

「相当に混乱している」

「そのようだ」

「きみは孫文の思想は武漢政府に継承されており、ゆえに武漢に帰らなくてはならないといった。しかし孫文の民生主義注などは明らかにコミュニズムに近い。きみは僕とともにアメリカで自由を学び、それを信じるに至った。きみは国民党のなかでコミュニズムから最も遠いところにいる人間だと思っていたのだが」

「ならばこう考えてはどうだ。僕は武漢で政府が極端に左傾化するのを阻止し、理想的なソシアリズム(社会主義)の実現を目指す」

「ソシアリズムね。ちょっと想像してみようじゃないか。ソシアリズムのもとでは政府は肥大化する。それを押しとどめることはできない。そうだな」

「そう考えていい」

「するとどうなる。例えば通貨は」

「僕の集めてくるカネは農民や労働者の救済に注ぎこまれて、産業の発展のためにまわすことはできない。政府の赤字は拡大して、紙幣が増発されることになる。僕がつくった美しい中央銀行券は価値をどんどん落としていくことになる」

「それをみるのをきみは耐えられない」

「ああ、耐えられない。しかし南京の政府もカネを使いまくっている。僕が南京政府にはいって紙幣を刷っても、その紙幣は同じ運命をたどることになる」

「それは北伐が終わるまでのあいだのことではないか」

「どうかな。北伐が終わっても、続けて国内の共産主義と戦い、諸外国の帝国主義と戦い続けるだろう。軍事費は増えることはあっても減ることはない」

「うむ」

と、小島はひとりうなずいた。

「なんだよ」

「まだ経済を論じることはできるんだなと思ってね」

「どういう意味だい」

「さっききみの悩みを延々と聞かされたが、こういう話は全く聞けなかったのでね」

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