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『上海ノース・ステーション』立ち読み

本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。

全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。

単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。

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「新聞記者?」

「ああ、そうだ」

 小島はそういってソファに脱ぎ捨てられたジャケットのポケットから名刺を取りだし、男に渡した。

 男は名刺をしばらくみつめたのち、口を開いた。

「条件がある。条件を聞いてもらえるならば話してもいい」

「なんだ?条件って」

「いまから話す内容を記事にするな。それが条件だ」

「おいおい。むちゃをいわないでくれ。『興味がある』ということばの意味は、記事にしたい、ということだ。これは譲ることはできない」

 それを聞いて男は脇に置いたリボルバーを取り、小島に向けた。十秒ほどそのままの姿勢で小島を睨んだが、やがて銃を脇に戻していった。

「あんたの想像のとおり、われわれは蒋介石を殺そうとし、失敗した。われわれは再度、機会を探して蒋介石を倒さなくてはならない。その前に記事がでては困るのだ。だから記事にするのは半年間待ってくれ。暗殺に成功した場合か、年内に暗殺ができなかった場合には記事にして構わない。それまでは待ってほしい。そういう条件でどうか」

 小島は「ふむ」といって再度天井を見上げて考えた。

 なかなか無茶な取引だとは思うが、男の条件を聞き入れてもいいような気もする。男の表情や挙動はやくざ者のそれとは思えず知性をすら感じさせるものであり、ただの殺人鬼というよりも政治犯なのだろう。逮捕されれば長期拘留されるか銃殺だろうが、それは惜しいような気もする。それにここで男を放ったところで蒋介石が容易に暗殺されるとも思われないし、そもそも銃を突きつけられており立場はこちらが圧倒的に弱い。

「いいだろう。条件をのもうじゃないか。きみらが成功するか年が明けるまでは記事にしない」

 小島は手をさしだした。妙な握手だとは思ったが、男も手をのばし小島の手を握った。

 小島は男の手を握りながらいった。

「僕のほうからきみに連絡をしたいことがあってもきみを探しようはないのだろう。暗殺者が定住所を容易く教えてくれるはずはないからな。きみらの計画が成功したり、もしくは実行を諦めたりしたときはきみのほうから連絡をくれたまえ」

 小島は一度渡した名刺を受け取り南京での定宿の住所を書き入れた。首都南京で取材をするときは必ずその旅館に泊まることにしており、自分が南京に不在のときでもニュース・ソースが訪ねてきたりした場合、すぐに上海に連絡がくるようにしてある。

「ではさっそくだが、きみの名前から聞かせてもらおうか」

「姓は燕(イェン)。名は克治(クージー)という」

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六月十五日 廬山

 燕克治。江蘇省の出身で年齢は二十八。孫文を敬仰する父の影響もあって中学に進むころには孫文の三民主義注に夢中になった。学校での成績は常に最優秀で、金陵(ジンリン)大学に進んで間もなく国民党南京市党部の青年部長に推された。そのころの克治は三民主義の理想をいかにすれば実現できるか、そればかりを日々考える若者だった。

 蒋介石を憎む気持ちはそのころ芽生えた。蒋介石は孫文に引き上げられていまの地位を得たにも関わらず、孫文が死ぬと後継者のような顔をしつつ、その教えに叛(そむ)き、無数の同志の骨を基礎にして築かれた政府を乗っ取ろうとしている。克治はそう考えた。

 一九二七年三月、北伐軍が南京に入城し南京は蒋介石の勢力下にはいった。各所で蒋介石を批判することばを繰り返し、当局に危険人物とみなされ南京にいづらくなった克治は上海に移る。上海では同郷の友人ふたりと狭い部屋を借りともに暮らした。その友人は共産党員で左翼文化サークルの社連(社会科学家連盟)の主要メンバーでもあり、しばしば克治を左翼活動へ誘った。克治は、共産主義に染まりはしなかったが、友人の影響を受け左派に同情的になった。一方で、反共の旗を掲げ江蘇、浙江の資本家と結んで労働者を虐げる蒋介石に対する敵意は一層深まっていった。

 蒋介石に敵意を抱く者は多い。

 孫文死去以降、蒋介石は、国民党内の左派、地方軍閥、共産党との戦いに明け暮れ、その都度勝利して権力を集中させていった。一九二八年には国民政府主席に就き、一九三〇年には行政院長注を兼ねて独裁的地位を手中にする。しかし、その強引なやりかたには反発も強く、蒋介石の周りはみな敵という状態にあった。

 一九三〇年秋、蒋介石は党を越えて横断的に各職能団体や学会等の代表者が集う〝国民会議〟を開催して、そこで暫定憲法ともいうべき〝約法〟の制定をおこなうべきと主張した。それに異を唱えたのが立法院長(立法府の議長)の胡漢民(フーハンミン)である。元老であり孫文の著作や思想に造詣の深い胡漢民は、孫文の考えによれば革命は軍事力によって国を統一する〝軍政〟、党が国を治め民衆を導く〝訓政〟、憲法に基づく議会制民主主義の〝憲政〟の三段階から成り、現在革命はそのうちの訓政期にあるので実質的な憲法である約法の制定は時期尚早である、として蒋介石に強く反対した。

 胡漢民の主張の背景には蒋介石への権限集中に対する強い懸念があった。胡漢民は、党が主導する統治の仕組みを確固たるものにしなければならないという信念を有しており、国民会議の開催と約法の制定は党の権限を弱めることになって、ひいては蒋介石の独裁につながりかねず容認できない、と考えていたのである。

 蒋介石と胡漢民は議論を尽くしたが、断固としてみずからの主張を変えない胡漢民に対する蒋介石のいらだちは増し、一九三一年三月二十八日、ついに蒋介石は胡漢民を南京郊外の温泉地、湯山(タンシャン)に幽閉するという挙にでた。

 そして五月八日、蒋介石は国民会議開催を強行し、同十二日に〝中華民国訓政時期約法〟を決定する。

 国民会議閉会の一週間後、国民党左派の中心である汪兆銘※、孫文の実子の孫科(スンクー)、国民党元老の林森(リンスン)、広西派と呼ばれる地方軍閥などがこぞって蒋介石のもとを離脱し、広州に新たな国民政府を樹立した。これにより中国内にふたつの国民政府が存立することになった。

 広州国民政府は言論をもって蒋介石に対抗しようとしたが、それだけで事態が解決されるはずもなく、かといって軍事力では南京側が圧倒的に優勢であり正面からぶつかっても勝ち目はない。そこで暗中での事態解決の方法が採られることになった。安徽出身労働者を中心とするマフィア〝斧頭幇(フートウバン)〟の首領王亜樵※に蒋介石暗殺を依頼したのだ。王亜樵は過去に複数の要人暗殺を手掛け〝暗殺大王〟とも呼ばれる男である。

 王亜樵は侠気に富み、弱者を捨て置けないところがあって、上海の労働者をなにかと支援してきている。いわゆる上海クーデター(一九二七年に蒋介石がおこなった上海の労働者に対する大弾圧)に大いに怒り、以降蒋介石に対して激しい敵愾の念を抱いている。

 王亜樵は蒋介石暗殺を請け負った。すぐに暗殺実行メンバーの選定を始め、克治にも声を掛けた。王亜樵は社連の主要メンバーである克治の友人に目を掛けており、しばしばその部屋を訪れた。そのため同居人の克治のことを以前からよく知っていたのである。

 蒋介石を憎む気持ちで王亜樵に共鳴する克治は王亜樵の誘いを迷うことなく受けた。

蒋介石を襲撃したあと小島譲次の部屋に逃げ込んだ克治は、小島に対して暗殺の動機、すなわち蒋介石が抹殺されねばならない理由を孫文の三民主義に遡って説明し、そのうえで襲撃計画とその失敗の理由などを語った。その語りはブランデー・グラスを傾けながら日暮れまで続いた。

午後八時過ぎ、小島は克治のための夕食をダイニングから部屋に運んだあとで、安全な逃走経路を探すためにひとりで外出した。

廬山は南北に連なる山脈であり、山脈のうえの平坦な部分に廬山の集落があって、そこから南方向へと別荘地が広がっている。集落や別荘地からみて西側は断崖であり、東側には険しい山があって、それを越えるとこちらも断崖となる。よって下山するためには尾根に沿って北に向かい九江市にでるか、もしくは逆方向の南に向かうことになるのだが、外出から戻ってきた小島がいうには、南北方向の道には検問が設けられており通行することは不可能とのことであった。西方向も警備が厳しく、逃走するためには東に向かわなければだめだろう、と小島はいった。

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克治は夜明けの一時間ほど前に宿をでて、東に向かった。

登山道を使うことはできない。山中をさまよい飲まず食わずで峠にでた。

そこからは壁のような急坂をくだらなければならない。克治は灌木に掴まりながら坂をくだっていった。ときに手を滑らせ数メートル滑落し、全身は打撲と擦り傷だらけとなった。

清流をみつけて喉を潤わせていたとき、なにかが林のなかをゆっくりと近づいてくる音が聞こえた。熊かもしれず、追手の官憲かもしれない。しかしもはや逃げる気力もなく、そのまま小川の岸に観念し座っていると、木々のあいだから顔を現したのは朱偉だった。朱偉は足をひきずり服は破れ、襲撃のときに撃たれたのか、シャツの袖のあたりが血で真っ赤に染まっていた。

暗殺は朱偉の怯懦のために失敗に終わった。朱偉が克治の指示どおりにもう少し蒋介石を引きつけていれば成功していたに相違ないし陳城が倒されることもなかっただろう。山中をさまよっていたとき、そのことばかりが頭を巡り怒りが募っていたが、満身創痍の姿をみると、それを口にだすことはできなかった。

ただ、朱偉が最初に吐いたことばを聞いたとき、克治は怒りを抑えきれなくなった。

「失敗したけれども首領は約束どおりに報酬を払ってくれるだろうか」

と、カネの心配を口にしたのである。克治は、

「失敗はおまえのせいじゃないか。今後警備が厳しくなる。もはや暗殺は難しくなった。それを申し訳ないと思う気持ちはないのか」

と詰(なじ)り、朱偉の傷のないほうの肩を強く突いた。

朱偉は弱々しく崩れ、座りこんだ。

その場所でふたりで夜を明かし、_陽(ポーヤン)湖畔にでたのは翌日の夕刻である。

長江をくだって梅雨まっただなかの上海に着いたのは十日後であった。

六月二十六日 南京 日本公使館

 在南京日本公使館のテニスコートのすぐそとに立つ巨木がコートサイドに小さな木陰をつくっている。

 この年の梅雨は雨量が例年になく多く、先週末から降り始めた雨も一週間近く降り続き、今朝になってようやく止んだ。この雨のおかげで気温は穏やかだが、久しぶりの強烈な太陽光によって雨水が大気中に浮上し、異常な蒸し暑さとなっている。

 重光葵(しげみつまもる)代理公使はコートサイドの木陰のなかに設えられたチェアにどさりと座り、丸テーブルのうえのラムネを手に取って一気に飲み干した。

「いやぁ。完敗です」

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