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『上海ノース・ステーション』立ち読み

本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。

全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。

単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。

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「私を殺すと息巻いているんだろ。知っているよ。まあきみの耳にもはいっているくらいだから問題はないと思っているよ。本気ならば密かにことを進めようとするだろう」

「ご存知でしたか。まあ田中さんは『明後日の夜に代理公使に会う機会があるから、そのときにやる』っていっていましたので、僕も冗談だろうと思っていました。『明後日』はすなわち今日ですからね。代理公使が今日の結婚披露宴にでられることを知っていましたから」

「今晩会うといっていた?」重光はそういって顎をさすった。「少し妙ではあるな。公使館の堀内君や土田君らが今晩田中君に六三亭で会うのだといっていた。田中君は確かに私に会うといったのかい。堀内君や土田君にではなく」

「間違いありません。代理公使に会うのだといっていました。代理公使のほうから呼ばれた、と」

 重光は首を傾げた。小島が訊いた。

「それで堀内さんらはなんのために田中さんに会うといっていました?まさか単に親交を深めるためではないでしょう」

「田中君が本気で私を殺害するつもりなのかどうかを確かめ、もし本気ならば考えを改めさせる、といっていた」

「考えを改めさせる、ですか。そのために公使の名を語って田中さんを呼びだしたんですかね──」

 小島も首を傾げ少し考えてから、

「ちょっと気になりますね。様子をみてきますよ」

「いまからか」

「新郎新婦に挨拶もできましたし、六三亭ならここからすぐですから」

 小島はそういってその場を辞し、アスター・ハウスをあとにした。

 アスター・ハウスから日本料亭の六三亭までは七百メートルほどである。小島はその道のりを走った。いやな予感がしたのだ。田中の傍若無人ぶりは在留邦人の間で極めて評判が悪い。血の気が多く、常識では考えられない無茶なこともする。一方で公使館の土田は熱血漢で恐れるということを知らず、堀内も不正をみれば相手が誰であれ向かっていくような男だ。そのような者どもが集まり酒がはいれば些細なことでも面倒に発展する可能性は低くない。ただ、もしそこに小島がいれば問題は起こらないだろう。彼らにも新聞記者のいる前では暴力沙汰を起こさないくらいの理性はあるはずだ。

 六三亭に向かって呉淞(ウーソン)路を駆けた。

 六三亭に着き、引き戸を開いてなかにはいり、でてきた女将に息を切らしながら「公使館の連中はきているか」と訊いた。

「はい。今日はずいぶん早く、日が暮れる前にいらしてますよ」

 すでに一時間以上が過ぎている。

「田中大尉はきたか」

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「はい。公使館の方々のお部屋にご案内しました」

「いつきた」

「ほんの十分ほど前でしょうか」

(間に合ったか)

 小島は「フウ」と息を吐いた。

 女将について部屋に向かった。廊下を歩いているとき、田中と堀内の声が聞こえた。互いに激しく怒鳴り合っている。

 部屋にはいると、田中と堀内、土田、さらに公使館の林出が小島を見上げた。

 田中が「小島、なんの用だ。みた通り取りこみ中だ」と怒鳴った。

 小島は「今日くるはずだった重光代理公使が別件でこられなくなってね。その代理できたんだよ」と、飄然といった。

七月十四日 上海 四馬路

 田中隆吉は、妓院の建ち並ぶ四馬(スーマー)路(現福州路)を、しな垂れ掛かかってくる客引きの女たちを押し退け、遊び場を決めかね、たむろする各国の水夫たちのあいだをすり抜けて早足で歩いている。

 田中は昨年の秋に公使館付武官補佐官として上海に赴任した。

 赴任したてのころは夜毎に膨れ上がってくる欲望を解き放つためにこの道をさまよったものだ。しかし、しばらくして女ができ、その後はこの道に足を踏み入れることはほとんどなくなった。上海赴任後すぐに女ができるのは至極当然のことであり、田中の前任者たちもみなそうだった。ただ前任者たちと桁はずれに違うのは女の出自である。女の名は日本名川島芳(よし)子。芳子を初めてみかけたとき、その容姿に感じるところは一切なかったが、清朝粛親王の十四王女であると知った瞬間に田中の心に火がつき、その火は一瞬に燃え上がった。田中はイヌ科の動物が何日もかけて獲物を追いこんでいくように執拗かつ周到に芳子を追い詰めていった。最後には半ば強引にベッドに乗せ、それでようやく芳子は落ちた。いまはフランス租界に借りた洋館で同棲をしている。

 田中は客引きもなく門構えも地味な妓院の前で足を止めた。入り口の横に作りの悪そうな椅子に腰掛け新聞を読んでいる男がいる。その男に短く声を掛けてから建物のなかにはいった。

 建物にはいってすぐの部屋には方卓が四台置かれており、そのうちの三台それぞれにひとりずつが座っている。いずれの男も目は開いているが口も微かに開き、呼吸にあわせて身体を前後にわずかに揺らし続けている。生きてはいるのだろうが脳を全く活動させていないかのようだ。

 空いている唯一のテーブルに腰を掛けると、ほどなくして真っ青な旗袍(チーパオ)を着た女が部屋にはいってきた。田中が立ち上がると、女は田中の首に両手をまわした。この店の雇われ経営者である。女としての興味の対象ではないので、名は覚えていない。

「もうお待ちよ。ご案内するわ。ご用が終わったら呼んでね」

と女はいった。口調は柔らかいが声は嗄(しわが)れており、顔にはなにやら打算的な笑みを浮かべている。

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 腕を絡めてきた女に連れられて階段を二階に上がり、指さされた小部屋にはいった。

 部屋の奥に対照に二台の寝台が置かれている。そのうちのひとつに男が横たわり、紅い旗袍の女が傅(かしず)いている。男の枕元に置かれたランプの揺らめく光がその女の頬に当たっている。子供だ。おそらく十二か十三くらいか。うしろの壁に投影された少女の影が風に吹かれる柳のように揺れている。

 寝台に横たわっている男の名は許清※。性風俗店などを手広く経営し、秘密結社〝青幇(チンバン)〟の幹部でもある。かつて日本の紡績会社の工場で労働者の監督をしており、そのときに日本との関係ができた。以前はわずかなカネをだせばなんでもする男だったようだが、いまは羽振りが良くなり動きが鈍くなっている。とはいえそれは金額の問題であり、大洋(ダーヤン)(銀貨)が積まれさえすれば国を売ることもなんとも思わない男だ。

 部屋のなかは甘酸っぱい匂いで充ちている。阿片の匂いだ。

 田中は小さな舌打ちをした。

 許清は阿片を吸うと話が饒舌になり、それでいて必要なことをいい忘れたりするのだ。田中は阿片をやらない。上海赴任後すぐに興味で吸ったことはあるが、その一度だけだ。そのときは、身体が確かに床から数ミリ浮き上がり、周りの色彩が艶やかになり、鼻腔が甘美な香りで充ち、耳には鳥の囁きが聞こえた。が、それだけのことだった。その感覚を再び求めたいと思うことはなかった。

 許清は寝台に横たわったままで目をつむって阿片を吸い続けている。田中が部屋にはいってきたことに気がついていない。

「おい。今日はいったいなんのようだ」

と田中がいうと、許清は重そうな瞼をゆっくりと開いた。

「ああ、きてたのですか。そっちに座ってください。ゆっくりどうぞ」

 許清の日本語はさしてうまくなく、そのうえ呂律が怪しくて聞き取りにくかった。

「おれは阿片はやらん。それよりも用件を話せ」

 田中はそういって、空いているほうの寝台に腰をおろした。

 許清は緩慢な動作でパイプを少女に渡し、身体をわずかに起こした。

「おもしろい情報があります。買いますか」

「なんの情報かも聞かずに買うというわけがなかろう」

「王亜樵の関連の話です」

「王亜樵?なにものだ」

「知らないのですか。斧頭幇(フートウバン)の首領です。暗殺大王(アンシャーダーワン)と呼ばれています」

 田中は「フートウバン」というのは聞き取れなかったが、「アンシャー」が暗殺であること、「ダーワン」が大王を意味することは知っていた。

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