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『上海ノース・ステーション』立ち読み

本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。

全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。

単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。

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「なんということだ」

 子文は天井を仰いだ。

 しかし天井を見上げながらも子文の頭のなかは忙しく動いていた。国庫からでることになるであろう金額の概算をしていたのである。莫大な数の人命が失われると聞かされても、まずは金銭のことを考えてしまう自分の脳が忌まわしくはあった。カネ勘定をする賤しい顔をみられたくなくて天井を仰いだのかもしれない。

 子文の心のなかを見透かしたかのように、唐腴臚は水害に伴う臨時予算に話題を移した。

「なにはともあれ被災民に対する食糧援助が必要となりますが、その費用は最も少ない場合で一千万元です。被災民に対する食糧以外の救済やインフラの修復まで考えれば八千万元を超えます」

「八千万元か」子文は深いため息をついた。「また公債の増発か。厳しいな──」

 国民政府は一九二八年に北伐を完成し、子文はすぐに軍事費削減による財政健全化に着手した。ところが北伐完成後も各軍閥や共産党との戦いが絶えず、そのため国民政府の財政状況は劣悪な状況から未だ抜けだしていない。一九三一年六月末までの一年間の歳入七億七千五百万元のうちの二億千七百万元が公債等債務で賄われた。つまり歳入の二十八%は借り入れに負っているのである。ちなみに軍事費は三億千二百万元、すなわち歳入のうちの四十%が軍事費に消えた。そしていま、予期せぬ天災のために新たに八千万元の出費を強いられようとしている。昨年度の借り入れ額の三十七%にもなる巨額を調達しなければならない。

「部長。国家が未曽有の天災に遭ったのです。国を挙げて被災民を救済すべきですし、そう国民に対して訴えれば、国民も進んで支援しようとするはずです」

「ああ、そうだな」

と、子文はうなずいたが、内心では唐腴臚のことばに同意してはいない。上海の金融界に対して情に訴えて被災民を救済すべきといってみたところで彼らは動かない。直近一年間の公債の表面利率は八%から九・六%で、額面金額よりはるかに安い額で銀行等に引き受けられるので実際の利回りは表面利率の約二倍の十八%程度だ。利回りこそが上海の金融界を動かす唯一のものだ。八千万元を消化するためにはすでに高位にある利回りをさらに引き上げねばならず財政を逼迫することになる。

 ドアをノックする音があった。

 唐腴臚がドアを開けると電信担当官が立っていて、唐腴臚に電報を手渡した。

 唐腴臚は歩きながらそれを一読し、「蒋主席からです」といって子文に渡した。そして、「また催促です」といいながら、うんざりしたかのように首を横に揺すった。

 子文は電報を受け取り黙って読んだ。至急に食糧と資金を送れと書いてある。

 唐腴臚は、「主席はいまがどういう状況かわかっておられない」といって、デスクを拳で叩いた。

 蒋介石は、剿共(ジアオゴン)(共産党討伐作戦)を一九三〇年末から本年初にかけてと本年春の二度にわたって実施したが捗々しい成果を得られず、六月末に三回目の剿共を開始した。一回目は十万人、二回目は二十万人規模であったが今回は三十万人規模の大軍を動員し、蒋介石みずからが南昌に司令部を置き督戦している。

「主席は山に籠って包囲戦を戦っているのだから、山のしたで生じている状況をよく理解していないとしてもやむを得ないよ」

「夏王朝の禹(う)王の治世以来、治水がわが国の聖王の条件であることは、中国での教育をあまり受けていない私のような人間にとっても常識です。主席が本当にこの国をまとめていきたいと思っておられるのなら、いまこそすぐに山から下りて、長江河岸に立って陣頭指揮をおこなうべきです」

 子文は短く「うん」とうなずいた。その点については子文も同様に考えている。危機的な財政状況と日に日に強くなる日本からの圧力に鑑みれば、共産党掃討を全てに優先しようとする蒋介石の姿勢は正しいとは思い難い。加えていまは多大な数の国民に莫大な損害を与える災害が進行中なのだ。食糧であれ資金であれ人材であれ、この国がもつ全てを救済に投じるべきではないか。それに、災害の陣頭で声を張り上げれば蒋介石に対する民衆の支持は大いに高まるだろうし、それをしないと、民衆は失望し蒋介石の立つ地盤は危ういものとなるだろう。

「なにはともあれ災害対策用の費用の調達だ。主席への送金はその状況をみたうえで考えよう」

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「では、どうされますか。すぐに南京をでられますか。それとも来週初に南京に戻らず、そのまま上海に残ることとされますか」

 唐腴臚は、上海の金融機関等に公債引き受けを依頼してまわるのをいつにするか、と問うたのである。子文は通常平日は南京の財政部に勤務し週末を自宅のある上海で過ごす。今日は水曜日である。公債引き受けを頼んでまわるためには二日や三日はほしいが、今夜南京をでて週末の前に上海で仕事をするか、それともいつものとおりに木曜日か金曜日に南京をでて、上海での金融界巡りを月曜日以降とするか、そのいずれかである。

 子文は壁のカレンダーをみながら考えた。

「いくつかアポイントメントもあるし、今夜南京をでるというのは難しいな。明日でて、来週初に外灘(ワイタン)を歩き回ることにしよう」

「わかりました。ではそのスケジュールで各方面へのアポイントメントとりつけをおこないます」

 唐腴臚がそういって立ち上がったとき、再びドアがノックされた。

 唐腴臚がドアを開けると先ほどと同じ電信官が立っていて、別の電報を渡した。

 唐腴臚が歩きながらそれを一読したのも先ほどと同じだが、表情は大きく違った。唐腴臚は電報を読みながら立ち止まり目を伏せた。そして重い足取りで近づいてきて、「部長。どうぞ」とだけいって電報を手渡した。

 その電報は母の危篤を知らせるものだった。

 子文の母、倪佳珍(ニージアジェン)は体調の不調を訴え、酷暑の上海を避けて青島で保養しているのだが、青島においても病状は改善に向かわなかった。子文はたびたび病状が重いという知らせを受けている。倪佳珍は子文のほか、靄齢※、慶齢※、美齢など、この時代の中国を濃厚な色で彩る兄弟姉妹を育て上げた女性である。子文は母を敬い、愛する気持ちが極めて強い。

 子文はしばらく俯いたのち、

「今日の夜行ででることにしよう。明日一日で上海の金融機関を巡って、明後日には青島へいきたい」

「さっそくチケットを手配します」

 唐腴臚はそういって退席した。

 子文も立ち上がり窓辺に寄った。

 わずかに青空が覗いていたはずの空は、いつのまにかに一面灰色に覆われていた。

 子文は母のことを想った。なんとしても母に一目会いたい。そして、ありがとう、といいたい。母も最後に息子の顔をみて、なにかことばを掛けたいと思っているに違いない。胸が苦しい。カネ集めなど捨て置いて、いますぐに青島へ飛ぶか、と子文は考えた。

 が、子文は首を振った。母の考えは違う、と思ったのだ。母は、息子がすぐに駆けつけてくることよりも、涙を堪えながら人々を危機から救うために走ることを望むに違いない。母ならばそう考える。

 雨が降り始めている。道路をゆき交っていた人々は靴を手に持ち飛沫をあげながら駆けてゆく。こうしてみているあいだにも雨脚が強まるようで、雨が地面をたたく音が次第に大きくなってきた。百メートルほど離れた先の行政院の巨大なゲートも雨の幕に隠れて霞んでしまい、わずかにみえるだけである。

 唐腴臚が戻ってきて訊いた。

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「お訊きし忘れたのですが、私もお供させていただくということでよろしいのですよね」

 唐腴臚のすぐうしろに顧麗玉(グーリーユー)が立っている。チケット手配などは顧麗玉の仕事だ。唐腴臚は顧麗玉にチケット手配を頼むときに、自分の分も頼んでいいのだろうか、と思ったのだろう。

 子文は一瞬考えてから、

「いや。今回はきみはいいよ。チケットは私と護衛の分だけでいい」

「どうしてです。僕もぜひお連れください。上海金融界の方々と顔つなぎもしたいですし」

「しかしきみは新婚だ。それなのに、もう何日も家に帰っていないじゃないか。僕が出張中のあいだくらいは休んで奥さんといっしょに過ごすがいい」

 唐腴臚が上海で政府や経済界の要人、重光葵など在上海の外交官などを招いて華やかな結婚式を挙げたのはわずか十日前のことである。唐腴臚はそのあとすぐから水害対策に追われ、財政部に詰めている。

「とんでもない。国家の危機です。休んでなんていられません。妻もそれはわかっています」

 唐腴臚は子文のデスクに両腕を突き、机越しの子文に迫った。

 子文は小さく微笑み、同行を許した。

 唐腴臚は嬉しそうに笑って、再び部屋からでていった。

 顧麗玉がそのあとを小走りで追った。

七月二十二日午後四時(暗殺事件十五時間前) 上海 蘇州河畔

 田中隆吉は横殴りの雨のなか、蘇州河北岸の歩道を早足で歩いている。

 すぐ左側を流れる蘇州河は水位が上がり、河水がいまにも道路に溢れだしてきそうだ。この雨のなかで船を動かすものはいないのか、川面には多数の小船が_留され、上流の方角から吹き下ろしてくる風に吹かれて木の葉のように大きく揺れている。

 前方左手に劃船(ボート)倶楽部(クラブ)が雨のベールに隠れておぼろげにみえてきた。一時間ほど前に許清より連絡があり、劃船倶楽部から蘇州河を隔ててちょうど正面の対岸で会おうといってきた。田中は、許清がそのような場所を待ち合わせ場所に指定したことを腹立たしく思っていた。わかりやすい場所でありながらも人通りが少ないので密会場所として選んだのだろうが、雨を避けて待つことができる商店の軒先も街路樹も一切ない。もしも許清が自分に遅れて待ち合わせ場所に現れるようなことがあれば、なにもいわずに首を絞めてやろうと心に決めた。

 傘をさして立つ人影がみえてきた。

 許清だ。ずいぶん前からそこに立っていたのか肩や足がずぶ濡れになっている。田中はほくそ笑んだ。

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