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円の歴史【第3回】海を越えた円の戦争〜コーヒーブレイクしながらわかる

本ページでは日本や世界の経済や社会の話題について、わかりやすくかつ漏れのない解説をめざすYoutubeチャンネルオーズ・リサーチ・ラボ掲載の動画の内容をご紹介しています。原則週に1本新作が掲載されますので、ぜひチャンネル登録を!

Round 1 大陸に渡った円系通貨 朝鮮銀行券安の進行

かつてマルコポーロが、「世界で唯一無二の美しさ」と讃えたという北京郊外の盧溝橋で、1937年7月7日に日本と中国とのあいだの紛争が始まります。

三国志のころであれば、侵略者は征服地で略奪を行なって軍を養いましたが、近代以降の戦争では、侵略者といえども食糧や労働力を購入しなければならず、そのためには現地で通用する通貨が必要となります。

日本では、中国との紛争はすぐに終わるとの考え方が一般的で、よって当座の軍事費の支払いは、日本が朝鮮半島の中央銀行として設立した朝鮮銀行の発行する朝鮮銀行券が天津の租界内で通用していたので、それを使えばいいだろうということになりました。

ところが、日本の読みとは異なり、紛争は長期化し、それにともない、華北地域での朝鮮銀行券の流通量は、開戦前には数百万円規模だったのが、半年後にはその10倍に膨れ上がってしまいました。

それに朝鮮銀行券は、農村などでは使用することができず、中華民国の通貨、法弊に比べて使い勝手がよくありませんでした。

このため、朝鮮銀行券には価値の下落圧力が加わりました。

他方で、中華民国の通貨、法幣は、中華民国国民政府が、為替介入や債券価格の安定操作、預金引き出し制限などを適宜実施したので、戦争勃発にも関わらず、価値が安定していました。

ここの結果、朝鮮銀行券は対法幣で下落しました。つまり、日本系通貨と、中華民国の通貨法幣のあいだで数年にわたって繰り広げられる通過戦争の第一ラウンドは、法幣の優勢となりました。

なおこのころ、この朝鮮銀行券安を利用した裁定取引が流行しました。

そのやり方は例えば、まず日銀券100円を持って横浜正金銀行上海支店に行き、その日の為替レートで法幣に両替します。ある日のレートでは日銀券100円で法弊98.5元が手に入ります。その法弊を持って汽車で天津に行き、朝鮮銀行天津支店で朝鮮銀行券に両替します。この例では法弊98.5元を朝鮮銀行券106.4元に交換しています。そして上海に戻ります。朝鮮銀行券は日銀券との1対1での兌換が保証されているので、上海の朝鮮銀行の支店で朝鮮銀行券106.4元で日銀券106.4円に交換できるので、天津往復で6%以上資金を増やすことができました。当時、紙幣をトランクに詰めて上海と天津の間を何度も往復して、大儲けをした人がたくさんいました。


Round 2 聯銀券登場と外貨不足による法幣急落

華北地域を占領した日本は、1937年12月に北京に「中華民国臨時政府」を設立しました。日本の傀儡政権であり、また、名称に「臨時」という文字が付けられていますが、一応は政府なので、新たに中央銀行が設立されることになりました。中国聯合準備銀行です。

翌1938年3月10日に開業した中国聯合準備銀行は、中国聯合準備銀行券、略して聯銀券を発行します。聯銀券1元は日銀券1円に等しいとされました。なお、開業の直前の3月1日の時点で、法幣100元が日本円109.6円と、円安の状態にあったので、マーケットで日本円買い法幣売りの市場介入を実施し無理矢理円高誘導がなされました。そして、聯銀券1元=日銀券1円=法幣1元のレートでスタートすることとなりました。

この中国聯合準備銀行の開業のわずか4日後、中華民国国民政府は、外貨割り当てを実施すると宣言しました。それまでは法幣からポンドなど外貨への交換は、公示レートで、誰でも・いくらでもすることができました。それを、公示レートでの両替は、国民政府の審査を受けたうえで一定期間に一定金額までしかできないことにしたのです。国民政府は、外貨割り当てを実施する理由は、日本が聯銀券で法幣を買い、買った法幣でポンドなどの外貨を購入して、中国聯合準備銀行の発行準備に充てようとしているから、としましたが、その実は、外貨の不足が深刻で、外貨を節約することを目的としていました。

日中戦争が始まったころ、国民政府は3.8億ドルの外貨を所持していましたが、輸出業者の外貨購入に応じたり、軍事物資の購入などで、1938年3月までにその半分以上を失っていました。

そこで外貨割り当てが実施されたのですが、外貨の需要はその後も旺盛で、顧客からの申請額に対する割り当て額は、どんどん減らされていきます。

輸入業者など外貨が欲しい人は、割り当てが得られなくても、自由市場で法幣を売り、外貨を買うことができました。その自由市場での法幣の交換レートは、日本軍の優勢・国民政府軍の劣勢の報道がなされるたびに、国民政府の外貨準備の不足を見透かして、売り圧力が強まり、グラフのように、1938年3月より急落し、半年で半分ほどになってしまいます。

1938年8月には、聯銀券の公式な対法幣交換レートは、実勢レートに近づけるために、10%切り上げられました。

日本系通貨と中国法幣との通貨戦争の第2ラウンドは、日本優勢となったのです。


Round 3 国際貿易に使えない聯銀券に強まる売り圧力

1938年9月頃になると、日本系通貨優位の状況に変化が現れます。

法幣のレートは、パニック的な売りが収まり、対ポンドでは1元=8ペンス台を底にして安定して推移するようになります。

一方で聯銀券については、売り圧力が強まっていきました。

その理由は、まず、農村との取引や、天津租界内での公共料金の支払いなどで聯銀券を使用できず、使い勝手が悪かったことです。

それから、貿易取引においては、輸入業者は、外貨準備が不足している中国聯合準備銀行は外貨を売ろうとしないので、聯銀券で、商品の輸入のための外貨を手に入れようにも、できませんでした。

輸出業者は、輸出で手に入れた外貨を中国聯合準備銀行に売る場合、1シリング2ペンスが聯銀券1元の公定レートでしか買い取ってくれないので、法幣の市場レートで、8ペンスで法幣を1元入手したほうが、法幣1元と聯銀券1元はほぼ等しいので、40%も得することになります。

つまり、聯銀券は国際貿易では全く使い物にならなかったのです。

この結果、自由市場では、法幣100元=聯銀券102元のレートが建てられ、その後、法幣高、聯銀券安が進行していきました。

このように、日本系通貨と中国の法幣との通貨戦争の第3ラウンドは、再び法幣の優勢となりました。なお、このころ第3の勢力が登場します。華北省の共産党の勢力下にある辺境地域に新たな銀行が設立されて、独自の通貨の発行が開始されました。共産党の勢力下の複数の地域で順次銀行券が発行され、域内での法幣の使用も禁止されるようになっていきます。法幣、聯銀券に、共産党系の通貨群を加えた、三つ巴の戦いが始まったのです。


Round 4 日本の攻撃で法幣暴落

1938年夏からの法幣の安定は意外にも長続きし、1938年中は、法幣の対ポンド・レートは、1元=8ペンス台前半で安定して推移しました。

しかし為替レートが不変で、国内物価が数十%も上昇すれば、その為替レートは高すぎる状態となります。これは、海外の物資が数十%も安くなったことを意味し、上海では輸入の手配が殺到しました。市場介入による外貨の売りや、輸入業者の外貨需要などにより、国民政府の所持する外貨や法幣安定基金はどんどん減っていきました。 一方で日本は、1939年3月に華北における法幣の流通を全面的に禁止しました。

しかし、為替レートが不変でも、国内物価が数十%も上昇すれば、為替レートが高すぎる状態となります。海外の物資が数十%も安くなったことを意味し、上海では輸入の手配が殺到しました。国民政府の所持する外貨や法幣安定基金は枯渇していきます。

一方で日本は、1939年3月に華北における法幣の流通を全面的に禁止しました。

1939年6月には、中国聯合準備銀行の天津支店長が天津のイギリス租界内の映画館で暗殺される事件が発生しました。日本軍は天津租界を封鎖し、イギリスに対して・犯人の引き渡しに加えて、法幣の租界内の流通禁止、中国銀行等が租界内に持つ銀の・中国聯合準備銀行への出資など、金融関連の要求も行いました。この金融関連の交渉は最終的に決裂するのですが、天津租界封鎖や日本の要求などが報じられるたびに人々の法幣に対する不安が高まり、上海では預金の引き出しが殺到し取り付け騒ぎが発生するなど、大混乱となりました。

さらに日本は、天津租界から輸出するときには、中国聯合準備銀行に輸出で取得する外貨を売却しなければ、輸出を認めないという輸出入為替集中制度を実施し、これが法幣不安に拍車をかけます。

国民政府は、嗜好品の輸入を禁止したり、輸入に課徴金を課したり、輸出に補助金を出すなどの制度を導入し、外貨の流出抑制に努めますが、ついに国民政府の外貨も、法幣安定基金も底をつき、1939年7月、やむなく公示レートを、1元=6ペンス1/2へと切り下げました。

以降は、市場介入も行われず、法幣は急落し、グラフのような暴落となりました。公示レートの切り下げからのわずか1ヶ月で半分になったのです。日中戦争・開戦前から比べれば、実に77%の下落となりました。

これに伴い、自由市場での法幣と聯銀券とのレートも法幣安・聯銀券高へと動きます。 一時は100元が聯銀券130元をも超えた法幣は下落し、7月の末には法幣100元が聯銀券90元をつけます。

天津租界の封鎖をきっかけにして、日中通貨戦は一気に日本側優勢となったのでした。

その後、1940年3月に日本は、南京に、蒋介石のライバルである汪兆銘を首班とする南京・国民政府を樹立します。そして翌年1月に、南京国民政府の中央銀行である中央儲備銀行が開業し、中央儲備銀行券が発行されました。これにより、華北地域に続いて・上海を中心とする華東地域においても、日本系通貨による侵攻が始まります。

対する中華民国側は、1941年4月にイギリスおよびアメリカとの間で、法幣防衛用資金の借入に関する協定を締結し、これに基づいて、米中間の為替安定基金が新設され、1939年3月に設立された英中間の為替安定基金に追加資金が投入されました。

また、中華民国国民政府はアメリカに対し、中国の在米資産の凍結を強く要請しました。これは、国民政府のコントロールが効かない上海租界や日本に占領されている地域の銀行を通じて中国の外貨が日本に流出することを阻止するための措置です。アメリカは要請に応じ、7月26日に中国の在米資産凍結を決定しました。

このとき、措置をより効果的なものとするために、日本の在米資産の凍結も合わせて実施されました。なお、この資産凍結が、日本を窮地に追い込み、対米開戦へと導くことになるのは、よく知られたとおりです。つまり、日本と中国の通貨をめぐる争いが、太平洋戦争の大きな要因の一つだったということができるでしょう。

なお、この資産凍結が、日本を窮地に追い込み、対米開戦へと導くことになるのは、よく知られたとおりです。つまり、日本と中国の通貨をめぐる争いが、太平洋戦争の大きな要因の一つだったということができるでしょう。


余話:法幣偽造工作

日本の陸軍は、中国経済を混乱させることを目的として、ニセ札工作を試みました。

軍は、1938年秋にニセ札を試作し、山西省の太原で使用しましたが、これは偽造の質が悪く、すぐに失敗に終わりました。

1939年の夏、軍は通称「登戸研究所」と呼ばれる第9陸軍技術研究所で本格的に法幣の偽造工作を開始しました。

原版の作成、すかし技術の体得、法幣と同質の用紙の製作などで多くの苦労を強いられ、数々の失敗ののち、ようやく1940年夏に量産を始めます。

ニセ札の撒布は、日本の占領地域と中華民国支配地域との境に近い安徽省北部の都市で行われました。そこでは、両陣営間の物資の取引が盛んに行われていたので、聯銀券や儲備銀券を使って法幣を取得し、それにニセ札を混ぜて中華民国側から物資を購入したのです。

1941年の年末、日本は香港を占領しました。そして法幣の印刷工場3か所と香港ドルの印刷工場1か所を接収します。これにより、本物に似せたものではなく、本物と全く同じ偽造紙幣の製造が可能となりました。

この法幣偽造工作により、日本軍は、法幣発行額の20%を占めて、重慶の中華民国の経済に打撃を与えることを目指しました。

ところが、重慶側は、財政赤字の急拡大にともなってインフレが進行しており、法幣印刷工場を日本に奪取されたこともあって、法幣の印刷が追いつかない状態にありました。特に農村地域で紙幣が不足しており、農村地域を中心に、政府に対する不満が大きくなっていたことが、共産党勢力拡大のひとつの理由になっていました。つまり、法幣偽造工作は、重慶側に打撃を与えるというよりも、むしろ重慶側を支援する結果となっていた、ということができます。

さてここで、太平洋戦争開戦前後までの、日本系通貨と中国の法幣との勢力の変遷をまとめておきましょう。

中国では長く銀が通貨として使われていましたが、1935年の幣制改革により法幣が誕生し、一気に普及しました。

そして1937年、日中戦争が始まり、日本軍は朝鮮銀行券を流通させますが、使い勝手が悪く、流通量が一気に増えた朝鮮銀行券は価値を落とし、一方で法幣は適切な政策により価値が守られました。

1938年、中国聯合準備銀行券が誕生し、他方で中華民国では外貨の流出が止まらず、法幣は急落しました。

しかしその後、聯銀券が国際貿易にほとんど使用できなかったことなどから、法幣が巻き返します。

一方でこの頃、各地で共産党系の通貨が誕生し、通貨戦争は三つ巴の様相をみせはじめます。

1939年6月、日本は天津租界の封鎖を実施して金融面での各種要求を行い、その他にも華北での法幣流通禁止、輸出入為替集中制度の拡大など、法幣への攻撃を強めます。法幣不安が高まり、中華民国の対外支払い準備が枯渇して、法幣は暴落しました。

1941年には中央儲備銀行券の発行が始まり、華東地域でも法幣が侵食され始めました。

なおこのころ、日本陸軍は法幣偽造工作を進めましたが、これは大きな成果を得られることなく、失敗に終わりました。


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省略(動画本編でご覧ください)

 

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