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円の歴史【第7回】プラザ合意から黒田バズーカへ〜コーヒーブレイクしながらわかる

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プラザ合意

この黄色い線は、1970年代の・円の為替レートの推移です。

20年以上にわたって1ドル360円に固定されていた円レートは、1971年8月のニクソンショックにより大きく動き、1971年12月のスミソニアン合意により、1ドル308円で再び固定されます。そして1973年2月に変動相場制へと移行したところまでを、前回の動画でお話ししました。

その後すぐに1ドル265円前後にまで円高が進むのですが、1973年10月にオイル・ショックが発生し、日本の経常収支が赤字に転じ、また、地政学的リスクも意識されて、対ドル円レートは300円前後の水準に押し戻されます。

その後1974年から1976年にかけて、およそ2年にわたって300円前後で推移しました。

そして1976年の後半から、日本の経常収支の黒字が拡大を始め、他方でアメリカの経常収支の赤字が拡大し始めます。このため円レートは急激に円高に進み、1978年には200円を突破し、一時は170円台をつけるに至りました。

しかし、1979年、第2次オイルショックが発生すると、日本の経常収支は赤字に転じ、また、インフレへの対策としてアメリカが高金利政策を採ったことから、1979年の年末までに250円近くにまで円が売られ、ドルが買われました。

グラフは日本とアメリカの短期国債の金利を示したものです。これを見ると、第2次オイルショックがあった1979年ころから、赤線で示されたアメリカの金利が非常に高くなり、青線で示された日本の金利を大きく上回ります。紫色で示された部分は、日本とアメリカとの金利差を示していますが、アメリカの金利が常に日本を上回る状態となりました。

1981年にはレーガン政権が誕生します。通常、景気が悪い時は財政支出の拡大と金融緩和が行われますが、当時は、不況とインフレが同時に発生するスタグフレーションの状況下にあったため、レーガン大統領の経済政策・レーガノミクスでは、減税と規制緩和で景気を刺激しつつ、インフレに対処するために金利を高く保つという方策がとられました。加えてレーガン大統領は、「強いアメリカの復活」を掲げて、ドル高を目指したので、第2次オイルショックにより250円程度にまで押し上げられた対ドル円レートは、その後も200から250円の水準で推移することになります。

このドル高を背景にして、1982年の後半から、アメリカの経常収支の赤字が深刻になっていきました。

1977年から78年にかけてアメリカの経常収支が悪化したときは、急激なドル安・円高が進みましたが、1982年後半以降の局面では、アメリカの高金利により、為替レートはほとんどかず、そのため、アメリカの経常収支の赤字は拡大を続け、その結果、日米間の通商摩擦が激しくなっていきました。

アメリカは、自動車や半導体、農産物などモノの輸出入に関して日本に強い圧力をかけると同時に、金融についての改革も強く求め、1983年11月には、日米の為替問題と日本の金融自由化を協議する日米円ドル委員会が設置されました。作業部会での6回の会合を経て、1984年5月に日米円ドル委員会報告書が発表されました。報告書は、その後の日本の金融市場の自由化や円の国際化の大きな契機となりました。ただ、為替レートについては、「金融市場改革等を通じて円高方向に進むことが期待される」とされたものの、その後も是正はされず、1985年の年初には260円台をつける場面もありました。

そして1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで、歴史的な会合が開催されました。

日本、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスの蔵相と中央銀行総裁が一同に会し、ドル高の是正に向けて協調行動をとることが合意されました。いわゆるプラザ合意です。

プラザ合意の直前には240円程度だった円レートは、翌週には220円まで円高が進みます。そして年明け早々の1986年1月に200円を下回り、86年半ば以降は150円前後で推移しました。

1987年2月には、パリのルーブル宮殿で開催された先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議において、これ以上のドル安は好ましくないとするルーブル合意がなされますが、ドルの下落はとまらず、87年中に120円近くにまで円高が進みます。つまり円のドルに対する価値は、 プラザ合意のあと2年間で、実に、2倍となったのでした。


バブル形成と崩壊

急激な円高の結果、日本は不況に陥りました。いわゆる「円高不況」です。

グラフは、日本の実質GDP成長率の推移です。

プラザ合意以降、GDP成長率は顕著な落ち込みとなりました。

円高不況を懸念する日本政府は、大規模な景気対策を実施します。

下のグラフは、日本銀行が民間銀行に貸出を行う際の金利である公定歩合の推移です。

このとおり、日本銀行はどんどん金利を引き下げていき、プラザ合意前には5%だった公定歩合は、1987年2月には、半分の2.5%となりました。

この、下のグラフは、GDPの成長率に対し、各需要項目がどの程度寄与したかを示しています。プラザ合意の前は、外需はGDPの成長率にプラスに寄与していましたが、1986年には一気にマイナスに転じました。

1987年以降も、しばらく外需はGDP成長率を押し下げるほうに寄与します。

他方で、政府の積極的な財政支出により政府需要がプラスに寄与し、そして大胆な金融緩和政策によって、民需が、外需の落ち込みを補って余りあるくらいに、大きくプラス寄与しました。

この結果、日本経済は、早くも1987年には回復します。

ところが、景気ははっきりと回復していったにも関わらず、金融緩和は継続されました。この金融政策の正常化の遅れが、日本のバブル経済の大きな原因となりました。

日本銀行の公定歩合引き上げは遅れに遅れ、ようやく1989年5月に0.75%の引き上げが行われました。

そしてその年の年末に日経平均株価は38915円の史上最高値を付け、翌年始めから暴落します。バブル崩壊です。


超円高!

日本経済がバブル景気に沸いていたころ、円ドルレートは、円安ドル高基調となりました。これは、国内の需要が旺盛で、輸入が増え、経常収支の黒字が減少傾向にあったことが主因です。

湾岸戦争の前後で、いったんドル安となり、その後にドル高となるという動きがあったあと、1992年ころから日本円は円高基調となり、1994年6月には100円を突破し、1995年4月に1ドル79円75銭の史上最高値をつけるに至ります。

1ドル79円75銭というのは、どのくらいの円高かというと、現在の感覚で、1ドルが50円を切るような超円高と言うことができます。

この、超円高が生まれた理由はいろいろと考えられますが、主には、バブルが崩壊して国内の需要が不足し、そのため輸入が減速し、また、国内で売れない商品が国外にマーケットを求めるので輸出が加速して、貿易黒字が拡大、その結果、円高が生じたということが理由でしょう。

このグラフが示すとおり、1991年頃から円高がピークをつける1995年中頃にかけて、日本の経常収支はどんどん拡大していっています。このため、1ドル80円を切るような円高となったのです。


その後の円と日本

グラフは、ニクソンショック以降、現在にかけての円ドルレートの推移です。このように長期的な視点でみてみると、1995年にかけて円高が進んだあとは、100円をはさんでのレンジ相場になっていると言ってもよさそうです。

つまり、これまでこの連載でお話ししてきた、銀本位制度から金本位制度への転換、金兌換の停止、円を使った戦争、ニクソン・ショック、プラザ合意クラスの大きな事件は、1995年以降にはない、と言ってもいいので、その後の歴史は駆け足でみていきたいと思います。

1ドル79円台をつけたあと、行き過ぎだ円高を修正するため、主要各国が協調介入を実施し、円は円安方向に反転しました。クリントン政権の強いドルを国益と考える政策のもと 円安が進み、1997年には山一證券が、1998年には日本信用銀行や日本債券信用銀行が破綻する金融危機が発生し、円は147.66円をつけるに至ります。

ロシアの財政危機やアメリカのヘッジファンドの破綻などがあり、安全資産である円が買われたあと、アメリカ経済がITバブルとなり、135円台まで円が下落します。

2005年から7年にかけては、円を売って外貨を買う「円キャリートレード」がブームとなったことなどにより円安が進みました。

2008年9月にリーマンショックが発生し、2008年11月から、アメリカの中央銀行であるFRBが、市場に大量の資金を供給する量的緩和政策を開始します。2009年にはギリシャの財政危機が明るみになり、安全資産である円に資金が流れ込みます。そのため一気に円高が進み、2011年11月には1ドル75.32円の史上最高値を付けます。

なお、先ほどプラザ合意以降に付けた1ドル79.75円は、現在の感覚で1ドル47円の超円高であるとしましたが、同じ計算方法によれば、2011年11月の1ドル75.32円は、現在の感覚で1ドル67円となるので、プラザ合意直後ほどには円高にはならなかったと言うこともできます。

2012年12月に誕生した第二次安倍政権による経済政策、アベノミクスの中核である異次元金融緩和、いわゆる黒田バズーカにより円安に転じ、2015年には125.85円をつけました。

そしてその後は、1ドル100円から120円程度の範囲内で横ばいに推移しています。ここ5年間ほどは、110円をはさんで10%の範囲内に収まっており、ニクソンショック以降の円の歴史で、初めて訪れた穏やかな日々、と言っていいかもしれません。

この章の冒頭で、1995年以降はニクソン・ショックやプラザ合意のような大きな「事件」はなかったと言いましたが、事件ではないものの、円の歴史として押さえておくべき重要な事項が2点あります。

ひとつは、円の国際化です。

円の国際化とは、日本円が貿易など国際的な取引で使われたり、外国の企業や個人、政府などに保有されたりすることをいいます。

円の国際化は、1983年から84年にかけて開かれた日米円ドル委員会をきっかけとして始まったもので、アメリカには、外国人が円をより簡単に手に入れることができるようになれば、円が買われ、円高となって日本の貿易黒字は減るという考えがありました。当時日本は、為替相場が不安定になるという懸念や、金融政策の自由度を失う等の理由から、円の国際化には消極的で、アメリカの要望をしぶしぶ受け入れたような形でした。しかし、自国通貨が国際化されることには、外国の商品を手に入れるために常に外国通貨を保持しておく必要がなくなるとか、自国の企業などが為替変動のリスクを負わないで済むようになるとか、自国の金融機関の国際業務が増える等のメリットがあり、日本政府も円の国際化を推進するようになっていきます。

とはいっても、アメリカに次ぐ経済力を誇っていた1990年代に政府の姿勢が十分に積極的ではなかったことや、1999年にはユーロが導入され、昨今は中国の人民元の台頭が著しいことなどから、円の国際化はあまり進んでいません。日本の貿易における円建て取引の比率は、主要先進国中で最低水準にあり、商業銀行の国際的な融資や国際的な債券の発行、世界各国が保有する外貨準備のいずれにおいても、ユーロがドルを猛追しているのに対し、円の比率は5%にも満たないような状況です。

もうひとつは、円が日本を貧しくしたのかもしれない、という点です。

と、やや大袈裟な言い方をしましたが、つまり、日本円の動きが、失われた20年と言われる日本の低迷の要因のひとつだった、ということです。

消費者物価上昇率は、円が史上最高値をつけた1995年にマイナスとなり、1998年ころから2013年ころにかけては、ほぼ一貫してマイナスとなります。

一般的に言って、自国通貨が高くなれば、輸入品の価格が下がることを通じて、その国の物価上昇率は下がります。

むろん、日本の物価の低迷は、新興国の安価な労働力による製品が市場に出てきたことや原油価格の下落など、複数の要因により引き起こされたものですが、円高が日本のデフレの大きな一因であったことは確かです。

経済がデフレになると、個人が消費を先送りにしたり、資金の借り入れを行うと不利なので、企業の投資が冷え込むことなどから、国内の需要は一層弱くなります。

国内の需要が弱いと、輸出に依存することで貿易黒字は拡大するかもしれません。また、理論的には、国内の物価が海外の物価より下がれば、物価変動率の差の分だけ為替レートは自国通貨高のほうに調整されることになります。すなわち、デフレによって円高方向への圧力が加わります。

この、円高がデフレを呼び、デフレが円高を呼ぶという悪循環が、失われた20年と呼ばれる、日本の長期低迷の原因となったのです。

グラフは、以前の動画で掲載した、世界の、物価水準で調整した1人当たりのGDPの順位の推移を示したものですが、1990年代には世界で最上位クラスだった日本は、現在までに大きく順位を落としました。2018年時点の、物価水準で調整した1人あたりGDPは、日本は31位で、シンガポールと比べると半分以下、アメリカの約70%、台湾の83%となってしまっています。

再びやや大袈裟な言い方をすれば、本来もっと豊かになっていてもよかった私たちの生活は、円によって蝕まれてしまった、と言うこともできるのです。


editorial notes...

省略(動画本編でご覧ください)

 

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