モデルとした人々のこと

本作はもちろんフィクションだが、登場人物のほぼ全てが実在した人物をモデルとしている。

その登場人物の名前をどうするか、つまり、実名とするか仮名とするかでずいぶんと悩んだ。物語を一通り書き終えてから本にするまでに数年を要したが、その間に、いったんは実名で書いた登場人物名を仮名に直し、実名に戻して、再度仮名にしたり、とさ迷った。

この物語は史実をもとにしているとはいえ、当然のことながら、各種資料で確認することができない部分は創作だし、登場人物の心の声については(本人以外知り得ないのだからあたりまえだけれども)全くの虚構である。

小説なのだから、登場人物の心の中も含め、どう書こうが作者の自由と言っていいのかもしれない。しかし書き進むうちに、あの難しい時代において自分の命と祖国の存亡が危険に晒された中で悩み苦しみ、出会って恋をして別れて、泣いて笑った人々の心の内を描こうとすることは、なんだかあまりに不遜なことのように思えてきた。同じ歴史小説でも、もう少し遠い昔の人を書くのであれば気にしないで済むのかもしれないけれども、この物語でモデルにした人々はいずれも生年が筆者の祖父母くらいであり、本人の著作もあり、写真も残っていたりして、あまりに身近過ぎるのだ。身近過ぎるがゆえに、心のうちを虚構で塗りたくっても果たしていいのだろうかという気がしてきた。

また、近い時代を扱っているだけに史実としてわかっていることが多く、史実と史実の間を創作で埋める作業は、点と点を線で結ぶというよりも、二枚の平板をジョイントでつなぎ合わせていくというのに近かった。そのため、ややもすれば史実の羅列になってしまいそうで、登場人物名を仮名とすることで、ジョイント部分をより太く、長くすることが可能になるように思った。

加えて(内情を明かしてしまうと)この物語では、書いた本人が史実だと思っているものが実はそうでないという可能性を否定しきれない。資料のなにが正しく、なにが正しくないのか、その判断がえらく難しいのだ。特定の事件を体験した本人によるいわゆる一次資料にしても、漢奸裁判で有利な判決を得たいとか、戦後の新しい価値観の中で自らの行動に良い評価を得たいとかの理由から、実にウソが多い。それに、中国の資料の特徴とも言えるが、ノンフィクションとして書かれているものに出典が記されていないことが多く、著者の想像がなんの断りもなく出てくる。その想像は、共産主義や反日思想の影響を受けて捻じ曲げられていたりする。そしてそれらが、あたかも事実のように他の書籍やネット上で広がっていたりする。そもそも特務機関関連については、英訳すれば secret service というくらいだし、信頼して依ることができる資料が非常に少ない。

考えた末に、一部の登場人物について仮名にした。いずれにしてもフィクションなのだけれども、モデルとした人物はあくまでモデルであり、その実在した人物と登場人物とは別物なのだということを強調することにした。

ある登場人物を仮名で描くか実名とするかに厳密なルールを設けたわけではない。高級官吏、政治家、軍人など公職者については、仮名とするとリアリティーがなくなるおそれもあって、原則全て実名としている。一方で、心の中を覗くことの多い主人公とその家族、友人等は原則として仮名とした。イギリスの財務官、エドマンド・レオ・ホール=パッチは、主人公にごく近い人物として描きながらもモデルの実名をそのまま借りた唯一の例外だが、これは、彼が各種資料にも名が見られる公人であったことに加え、筆者の過去の物語の登場人物にその実名を借用しており、それと関連づけたかったという都合もあった。

 

さて、この物語の主要な登場人物のモデルとした人物たちのその後を簡単に記しておきたいと思うのだが、この物語では“平和”を準主役の位置に据え、日中戦争期における和平工作について諸々を語ったので、登場“人物”ではないけれども、まずは和平工作のその後について触れておきたい。

1940年3月、汪兆銘を主席代理とする国民政府が南京に成立した。同時に北平の中華民国臨時政府は華北政務委員会に改編され汪国民政府下の自治政府と位置付けられ、南京の中華民国維新政府は汪国民政府に吸収された。日本は、広い権限をもつ日本人顧問設置を認めさせるなどして、汪国民政府を実質的な支配下に置いた。1938年11月に重光堂に会した人々は傀儡ではない新政府を立ち上げて、のちに新政府と重慶政府とが合流することを期待していたが、その目論見は全く外れてしまったのである。それどころか、汪国民政府の設立は、重慶政府から汪兆銘を始めとする親日派や早期停戦論者を離脱させたことにより、日中戦争の終結をより困難なものにしたのだった。

1940年を迎える頃には、首相周辺や参謀本部のみならず陸軍省、現地軍もが一様に、膠着状態に陥っている日中戦争をなんとか終わらせたいと望むようになるのだが、同時に、自らが骨抜きにしてしまった汪国民政府には大きな期待はできないというのが共通の認識だった。そのため日本政府は、汪国民政府の承認を引き延ばしつつ、蒋介石との直接交渉を模索し続けた。

そんな折に出てきたのが宋子良(宋慶齢、宋子文、宋美齢等の実弟)を通じた和平交渉、いわゆる桐工作である。陸軍はこの工作に大きな期待を寄せた。満洲承認問題や華北駐兵問題などでは難航したものの、1940年3月に香港で行われた予備会談では和平条件に日中双方がほぼ同意するに至った。中国側代表は蒋介石等の承諾を得るために合意内容を重慶に持ち帰ったが、同月末に汪国民政府が成立し、その頃から中国側の態度が消極的となる。結局同年9月、本工作は実質的に終了する。なお、宋子良と名乗った人物は、実は戴笠の直系の有力幹部だったことが後に判明する。

桐工作と入れ替わるように、1940年後半には浙江財閥の重鎮で交通銀行董事長の銭永銘を通じた工作が進められた。11月17日、蒋介石の特使より、全面撤兵と汪国民政府の非承認を約束するのならば和平交渉に入ってもいいとの打診があり、それを受け、22日に開かれた四相会議では、中国側が速やかに正式な代表を任命すれば30日に予定している汪国民政府承認を延期するとの決定がなされた。この日本の回答が香港に届いたのが24日で、27日にその回答を持って杜月笙が飛行機で重慶に向かった。中国側は29日に正式代表の任命を知らせてきたのだが、時すでに遅かった。その前日の28日、日本政府は予定どおり30日に汪国民政府承認を行うことを正式決定してしまったのである。

なお、上記の工作を日本側で中心となって進めたのは、桐工作は今井武夫、銭永銘ルートは西義顕である。この物語でも触れたように両者ともに重光堂会談の出席者であり、すなわち汪兆銘擁立工作の中心人物であった。二人はいずれも汪国民政府は両国の和平に寄与し得ないと考え中途で見限って蒋介石直接交渉工作に身を投じたのだが、その努力は、自らが立ち上げた汪国民政府の存在がひとつの阻害要因となって報われない結果に終わるのだった。

 

靄若のモデルは、言うまでもなく、鄭蘋如である。

鄭蘋如が軟禁されていた屋敷を出たあとの足取りは林秀澄上海憲兵隊特高課長の回想を記録した「林秀澄氏談話速記録」に記されている。

同速記録によれば、鄭蘋如に対する刑執行が決まったとの通知を特工総部より受けた林は、特工総部が処刑したと偽り逃がす可能性があるため、憲兵隊で刑の執行を見届けなければならないと考えた。

そこでまず滬西分隊長の藤野鸞丈に立ち会いを命じたが、藤野は

「(林を)先輩としてもう私は尊敬したくなくなる。私にさんざん苦労させてつかまえさせておいて、それを殺すところまで私に立ち会えって、それはひどすぎる」と言って、断った。続いて林は塚本誠憲兵少佐に連絡をした。塚本は梅機関、すなわち影佐禎昭大佐の特務機関に所属しており、林は、これは梅機関の案件だから、と言って立ち会いを求めた。しかし塚本も「そんな度胸が私にあるもんか。勘弁してくれ」と拒絶する。結局、林自身が刑執行に立ち会うことになった。

林は、鄭蘋如を軟禁場所から刑場まで連れてくる車に憲兵を同乗させた。その憲兵からの伝聞によれば、車は繁華街を経由してから郊外にある刑場に向かった。いったん繁華街へと向かったのは鄭蘋如の警戒を解くためである。車が繁華街から離れていく時になって鄭蘋如は、これはおかしいと気づき泣き叫んだ。

林は通訳とともに刑場に先に着き、車の到着を待っていた。

しばらくして車が到着する。

車の中から「リンシェンシャン、リンシェンシャン」と泣き叫ぶ鄭蘋如の声が聞こえてきた。「リンシェンシャン」はすなわち「林先生」のことである。林は、鄭蘋如は刑場まで車に同乗してきた林之江の名を叫んでいたと言うが、林秀澄も同じく「林先生」であり鄭蘋如が日本人である林に助けを求めていた可能性もなくはない。林自身も、一瞬自分の名が呼ばれているのかと思い「ぞっとした」と述べている。

そして鄭蘋如は、予め掘られた真四角の壕の前に座らされた。壕のすぐ縁で刑を執行するのは死体を運ぶ手間を省くためである。

罪状が読み上げられ、拳銃が鄭蘋如の後頭部に当てられる。この時には靄若は観念し、おとなしくなっていたようだ。

林は、鄭蘋如が最後に発した言葉についても言及している。

通訳を通じて林が聞いた最後の言葉は「私、中国人としてそんなに悪いことをしたのでしょうか」と、「顔は傷つけないで」だった。

 

豪勲は中国空軍のパイロット、王漢勲をモデルにしている。王漢勲は日米開戦後も大型輸送機のパイロットとして各地を転戦し、また、中国空軍の母とも呼ばれる蒋介石夫人、宋美齢の国外への航空機買い付けに同行を命じられるなど、重用された。1944年1月、重慶に避難してきた鄭蘋如の妹、静芝に数年ぶりに会い、その時に初めて鄭蘋如の死を知ったようだ。静芝の回想によれば、王漢勲は国外出張のたびに鄭蘋如へのプレゼントを購入し空軍の友人宅に預けていた。また、王漢勲の空軍の友人、劉毅夫著の「空軍史話」によれば、王漢勲は劉毅夫にしばしば鄭蘋如の写真を見せては早く結婚したいと漏らしていた。鄭蘋如が特工総部に出頭したのが1939年末もしくは1940年初だから、王漢勲は、少なくとも4年間は鄭蘋如に会っていないのだが、変わらぬ想いを抱き続けていたのだろう。鄭蘋如の死を知ってからわずか7か月後の1944年8月、王漢勲は、安徽省屯(ツン)渓(シー)周辺に展開中の部隊に支援物資を空輸するため湖南省の芷(ジー)江(ジアン)を深夜に発ち、黄山の山岳地帯で消息を絶つ。

 

エドマンド・レオ・ホール=パッチは、日米開戦までイギリス政府の東アジアにおける財政金融政策の最高責任者として日本と中国に深く関わり続けた。イギリス大蔵省へ戻ってからはアメリカとのレンド・リース法(アメリカからイギリス等に対して軍需物資を供与し、イギリス等からアメリカに対しては基地を提供するプログラム)交渉などを担った。戦後はOECDの前身であるOEECの執行委員会委員長を務めヨーロッパの復興に尽力し、また大使としてIMF、世界銀行等を歴任し1954年に公職から退く。1975年、79歳で没した。生涯独身であった。

 

隆明のモデル、近衛文隆は、1940年2月、すなわち鄭蘋如が銃殺されたちょうどその頃に招集され、二等兵として極寒の阿城(哈(ハ)爾(アール)濱(ビン)市の郊外)の重砲兵連隊に従軍した。初年兵として、時には上官の往復ビンタをくらったりしながら一年間を過ごし、以降、一等兵、上等兵、伍長と進級していく。除隊がなかなか認められず、満洲を転戦し、豪胆なエピソードをも残しつつ中尉にまで進む。1944年10月には哈爾濱で貞明皇后の姪と結婚した。そして終戦直前にソ連軍の捕虜となる。シベリアに11年もの間抑留され、1956年11月、獄中で没した。

 

勝利の女神像は、黄浦江のほとりに立ち上海の街を見守り続けた。しかし1941年12月、太平洋戦争開戦とともに日本軍が上海租界に進駐し、ほどなくして女神像は日本軍によって取り壊されてしまう。日本軍は勝利の女神像を欧米支配の象徴とみなし、それを撤去することにより、日本は上海を解放したのだと喧伝したかったようだが、却って日本の横暴を内外に示す結果となった。上海の富や人材は四散してしまい、第二次大戦終結によりいったん上海は活気を取り戻すが、その後の共産党の勝利によって再び沈む。女神像の撤去以降、上海は守護神を失ったかのように約半世紀にわたる沈滞を経験することになる。

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