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西施を助手席に載せて杭州近郊をドライブ

国慶節の杭州はともかく人で溢れている。ホテルもレストランも西湖の湖畔も人、人、人である。

どうして人々はこうも杭州を目指すのか。

一つには、杭州が古都であるためであろう。我々が奈良・京都や平泉に感じるのと同様に中国人は蘇州、西安、南京、杭州等を特別な町と感じる。

杭州は、南宋の都が置かれたことにより大きく発展した。中国東北地方でおこったツングース系の女真の国「金」は、一時期宋とは同盟関係にあり協力して遼を滅ぼしたが、やがて南下を始め、1127年に宋の首都開封を奪った。この時、宋の最後の皇帝欽宗の弟である高宗をヘッドとして多数の人々が南に逃れ南宋が建国される。この南宋の首都が当時臨安と呼ばれた杭州である。それまで小さな田舎町であった杭州は宋の南遷で人口100万を超える大都市に発展した。長安、洛陽などは政治都市としての性格が強かったが、杭州は商業が大いに発達し、貨幣経済も発展した。恐らくは中国で始めての商業都市がここ杭州に形成されたのである。急増した人口を食べさせていかなくてはならないことや、それまで未だ文明途上地域であった江南に、北の進んだ文明が導入されたことなどから稲の品種改良が進められ、米・麦の二毛作も開始されるなど農業も大いに発展した。マルコポーロは当時の杭州にやってきた。そして「東方見聞録」の中で「壮麗無比な大都会」と表現したのである。

人々が杭州を目指す理由としてよく美人が多いということが挙げられる。

まあ美人を求めてやって来るという人は現代社会においてはそうはいないだろうが、美人が多いという定説が杭州にプレミアムを与えているのは事実だ。美人が多い理由について、「血の交わる所に美人が生まれる。杭州も宋の南遷によって江南の血と華北の血が交わった」という意見、「大都会には美人が多い。800年以上に渡って世界有数の大都会であった杭州に美人が多いのは当然」という意見、さらに「南宋が都を置いていたので、後宮に入る美人が各地から集められたのだ」という意見を聞いたことがある。

いずれも美人の多い理由を宋の南遷に見い出しているわけだ。

血の交わる所や大都会になぜ美人が多いのかという点につき科学的根拠に欠けるため前二つには説得力がないが、三つ目の「美人が集められたから」という説については、蘇州、西安、北京、南京など、過去に首都であった町にはいずれも美人が多いことを考えるとあながち悪い説ともいえない。清の乾隆帝はしばしば南巡し杭州にも数回訪れたようだが、その目的の一つとして漁色があったという説もある。毛沢東も杭州を愛したが、杭州女性の美しさにも引かれていたとしても不思議ではない。

杭州の魅力の第三は食である。

杭州料理が他の料理に比べて特別にうまいと言いたいのではないが、特色のある料理があるため、食べることが杭州旅行の楽しみのうちの一つであるのは間違いない。なお、前々から思っているのだが、杭州料理は日本人の口にあうような気がする。グルメでない私には具体的にどのような味が我々の口にあっているのかわからないが、ともかくそう思う。 

初日の夜はまずガイドブックに載っていた杭州西家へ行ってみたが、席には案内されない、小姐に声をかけても無視される、やっと目のあった小姐に「メニューを」といってみたがいつまでたっても持ってこない。気分を害した私は注文をせずに店を出た。こんなサービスでも人が入るのは、サービスのことなど考えなくてもガイドブックを読んだ客が次から次へとやってくるためだろう。 

結局は湖浜路から長生路に入ってすぐ右側にある新榕樹酒楼で食べた。店構えがまあまあしゃれているので飛び込みで入ってみた。ここの服務員の態度はなかなかよいのだがずいぶん待たされた上に東坡肉、西湖醋魚といった、杭州料理の超代表格の料理が品切れとなっていた。味はちょっと甘さがきつく、以前楼外楼で食べた味とは明らかに違う。

二日目の夜は、名前を残念ながらメモして来なかったのだが、シャングリラホテルから西に3分ほど歩いたところを左にすこし入った建物の2階にあるレストランに行ってみた。こちらの味は楼外楼、新榕樹酒楼に比べうす味で、日本人の口に合うように思った。

一日目の夜も二日目の夜も一人当たり50元ほどであった。安い。 

個々の料理については「杭州楼外楼」編で述べたので今回は省略するが、今回の旅行で思ったのは、第一に店によって味がずいぶんちがうということだ。味のわからない私が言うのだから間違いない。第二に老舗等の有名店はサービスがよくないことが多く、味も必ずしもよくないこと。杭州旅行の際はガイドブックに頼らずにホテルの服務員に尋ねるなどして地元の人お勧めの店をいくつかリストアップし、それら何件かをハシゴしてみれば、各店の異なる杭州料理を楽しむことができるだろう。

最終日。上海を目指す。といっても最初がうまくいかない。杭州の町からなかなか出られないのだ。地図はあるにはあるが杭州市街地の地図で、どの道が上海につながっているのかわからない。北に延びる大通りを見かける度に北上してみるが、一本目はしばらく走ってから、杭州に来る時に利用した湖州ー杭州間の道であることが判明し、二本目は途中で細い道になってしまい、三本目は、最も立派な道でこれに間違いないと思ったのだが、空港への道であった。

空港で客待ちをしていたタクシーの運転手に道を聞いてみた。先に述べたとおり道を聞く相手としてタクシーの運転手というのは悪くない・・・はずだ。

「上海にはどうやって行くんですか」
運転手は出発ロビーを指差し
「あそこから飛行機に乗れ」
「車で行くんです」と言うと
「じゃあおれの車に乗れ」
ととぼけた返事である。私は自分の車の窓から顔を出して道を尋ねているのにである。
「いや自分で運転していくんですけど」
「“応該”あっちだ」
“応該”である。つまり「あっちに違いない」という意味ではなく「あっちかなあ」という意味だ。

不信に思いつつも運転手が言う方向に進路をとった。が、空港を出るなり道は極端に細くなり、全くのいなか道となってしまった。やはり「応該」を信じてはいけなかったのだ。

その後試行錯誤を繰り返し、いつのまにか上海に続く道に出た。どう走ったのかはもう覚えていない。なお、元々は杭州から松江まで完成しているはずの高速道路を利用しようと思ったのだが、一度としてインターチェンジを示す看板を見かけることはなかった。

途中有名な嘉興のちまきを食べる。嘉興を後にし、途中何度か道を間違えたり、公安に止められたりしながら上海へ。上海市に入ってからも油断できないことは先に述べたとおりである。

そして苦労の末私の住む虹橋周辺に着いた時には、数年ぶりに帰ってきたような、そんな喜びを感じた。

(参考文献)

史記 司馬遷 市川宏・杉本達也訳 徳間書店

中華帝国史 安能務 講談社文庫

中国・江南のみち 司馬遼太郎 朝日新聞社

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